はやぶさの帰還のニュースを聞きながら、やはり航空宇宙技術にはもっとデザインが必要だと思いました。
多くの人たちがあの機械装置を擬人化して感動を表現しています。私はその現象に、デザインへの渇望のようなものを感じました。もしこのマシンが航空機のような、洗練された機能美を持っていたら、ゆっくりと光を受けながら回転するドキュメンタリーだけで印象的な映像となるでしょう。ロマンを語るのに、表情を付けたり身震いをさせてみたりしたくなるのは何かが足りないのではないでしょうか。今回の帰還を通じて、宇宙開発の原点が技術ロマンである事を私たちは再確認しました。ロマンには、それにふさわしい姿があるように思います。
例えば、城郭や戦艦は機能を最優先して設計されるものですが、一方で、いつの時代も威厳や戦意高揚のためのデザインにも一定のコストがかけられてきました。宇宙開発が人々に希望を与える事業である以上、その希望を視覚化するためのコストは、科学振興の意味でも必要なものだと私は考えます。新幹線のパンタグラフだろうと、ジェット機のフラップだろうと、人の意思が入る余地が全くないほど、厳密に最適形状が決定されるわけではありません。美しくない設計は、多くの場合、美しくする気がないか、美しくする余裕がないかのいずれかであると思います。
機能の最適化に全力で取り組んでいる技術者からは、「以前デザイナーを入れたら箸にも棒にもかからない提案されて、時間の無駄だった」という経験談も良く聞きます。そういう技術者の方に、デザインとは本来そのような物ではないというお話をするところから私の仕事が始まります。機能的な形状を純化しつつ、ほんの少し手を加えるだけでこの上なく美しくなる場所を発見し、それを起点にしたいと思います。デザインの余地なんかないと関係者が思い込んでいる世界ほど、デザインがやれる事がたくさん見つかる物なのです。
南アフリカの国際会議、Design Indabaは、生まれ変わりつつあるこの国の活力を感じるものでした。しかし、一方で経済成長の陰に隠れて今なお拡大する闇も、少なからず見ることができました。
滞在中、主催者からは、6時を過ぎたら、いかなる場所であれ一人で出歩かないよう何度か警告されました。実際、まだ明るい夕方6時半ごろに講演者がひとりで散歩に出かけたといって、現地スタッフが血相を変えて探していたこともありました。
急速な経済成長のもとで、ブラック・ダイヤモンドと呼ばれる黒人富裕層が生まれる一方で、失業率は20%(黒人失業率は30%)を超えています。6時になると、帰宅する労働者たち代わって、失業者たちが都市中心部に流入して、市内の雰囲気ががらりと変わるのです。
講演者全員に用意された専用車の運転手さんが、どこへでも連れて行ってくれましたので、私たちはバスや列車を使う事はいっさいありませんでした。彼は、クルマを降りた先でも、いつも一緒に行動してくれます。常に黒い上着を着ているので申し訳なく思って、ある暑い日にジャケットを脱ぐ事を勧めたら、自分の胸を指差しながら「武器があるので脱げない」と。彼の本職は警官で、この会議のためにガードマンとして動員されたそうです。
写真は、その運転手兼ガードマン氏が案内してくれた旧黒人居住地です。20年前までの黒人たちは、鉄条網に囲まれたそのエリアから自由に出入りする事も許されていませんでした。現在では解放されているのですが、仕事のない貧しい人たちの多くは、残骸となった鉄条網の中で暮らしています。
ここに入るにあたっては、運転手氏が応援を手配し、私と妻は、警官4人にガードされながらそのエリアを歩きました。荒涼とした砂地に、ありとあらゆる廃材で立てられた家。舗装道路もなく、下水も整備されていない街は、ゴミだらけでした。ある家族が私たちを明るい笑顔で家に招き入れてくれましたが、室内にも廃品をかき集めたような家具が並べられていました。
救いだったのは、そこで生活する人々がそれほど不幸には見えなかったことでした。廃材の家には、長く住まわれた家だけが持つ、穏やかな空気が流れていたのです。陽気な彼らは、さかんに、楽しげに話しかけてくれました。もちろん何も言っているのかは全くわからないのですが。
身分制度こそなくなったものの、深刻な貧富の格差にあえぐ南アフリカ。私たちの帰国後に、周辺国からの移民が社会問題化して大きな暴動が起き、今も小競り合いが続いているそうです。あの鉄条網の中で暮らす陽気な人々は、ワールドカップをどのように受け止めているのでしょうか。
ワールドカップの開催地である南アフリカを一度だけ訪れたことがあります。
2008年にケープタウンで開催された、国際デザインコンファレンス “Design Indaba” に講演者として参加するためでした。主催者から、ロボットの実演の依頼があり、fuRoのエンジニアも含め5人+ロボット1台(ロボットビークル小型実験機Halluc II)のチームで遠征しました。
ケープタウンは、とにかく遠い所です。先方から指定されたエミレーツ航空で行くと、成田を出発して、関空→ドバイ→ヨハネスブルグを経由してケープタウンまで、片道約30時間!。
私たち自身の移動だけでなくロボットの輸送も大変でしたが、現地のホスピタリティは素晴らしいものでした。ケープタウンは、テーブルマウンテンと呼ばれる高さ千メートルの屏風のような山を背景にした美しい街です。ウェルカムパーティに始まって様々な歓迎イベントがあり、小旅行あり、ホテルも食事も申し分なし。講演者には、運転手付きクルマ(プリウス!)がそれぞれ1台ずつ用意され、滞在中いつでもどこへでも連れて行ってくれました。
展覧会とファッションショーが併設されたコンファレンスは、入念に準備され、アメリカ、ヨーロッパからも大勢のデザイナー達が参加していました。IDEOの創始者の一人ビル・モグリッジさんや、東京で開催中のポスト・フォッシル展をディレクションしたリー・エデルコートさんなどともゆっくり話すことができ、たくさんの友人ができました。
上の映像は、お別れパーティーの会場となったクラブでのHalluc IIの実演風景です。観光客だけではとうてい行かれないような隠れ家的なクラブで、ニューヨークから来たDJ Spooky との共演でした。サブリミナル・キッドと異名を取るSpookyの派手なパフォーマンスと、その横でノートパソコンのキーを叩き続けるfuRoの研究員O君とのコントラストが絶妙。ダンスフロアの真ん中で繰り広げられる、日本から来た異形のマシンの踊りに、現地の人たちも大興奮。みんなグラスを持って踊っているので、マシンに飲み物をぶっかけられないかと、ハラハラしながらのパフォーマンスでした。
アパルトヘイトの廃止から20年、鉱物資源への依存から脱却し、文化とテクノロジーの充実に努め、年平均4%の経済成長を続けてきた国の活力を感じた一週間でした。ワールドカップに向けて、急速に都市環境が整備されつつある一方で、しかし、この国の陰の部分も少なからず目にしました。そのあたりは次で紹介したいと思います。
南アフリカの光と影 その2へ
義足に関わるようになって、人の体のメカニズムにとても興味を持つようになりました。にわか仕込みのスポーツ・バイオニクスの話題から。
スポーツの世界では「体をバネのように」とか「膝のバネをきかせて」というような表現を良く聞きます。かつては単に比喩的な表現だと思われてきたのですが、近年、筋肉が本当にバネとして働いていることが明らかになってきました。
人が普通に立ったりしゃがんだりするとき、腿やふくらはぎの筋肉は、引っ張りながら縮む動作と、弛緩して伸びる動作を繰り返します。こうした運動では、筋肉は、建設機械の油圧シリンダーなどと同じように力を出す装置として働いています。しかし、ぴょんぴょん跳ねている時のふくらはぎの筋肉は、少し違うようです。
一般的に、しゃがんだ状態からジャンプするよりも、一度軽くジャンプして踏み込んでから地面を蹴った方が高く飛べる事は、誰もが経験するでしょう。いわゆる反動を付けるというやつです。この時、「ふくらはぎ+アキレス腱」全体は、自ら伸びようとするのではなく、着地の衝撃で引き延ばされてポテンシャル・エネルギーを溜め込み、直後にそれを解放して次のジャンプに移行するそうです。このメカニズムはほとんどコイルスプリングと同じ。
こういう使われ方をするときの筋肉は、とても短い時間で、伸張から収縮に転じることができ、スピーディな動きを可能にします。最近ではバスケットなどのスポーツにおいても、できる限り短い踏切時間で高く飛ぶための、バネ強化トレーニングが研究されているようです。
やっぱりスポーツって、体のバネ命。桜木花道が、試合中に「あっという間に誰よりも高く飛ぶ」のは、どうやら、常人じゃないバネ特性の筋肉の持ち主だということですね。
中村勇吾さんの「日の目を見なかったSWFたちを偲ぶ会 」に影響されて、日の目を見なかったモデルを偲ぶ会でもやってみようと思います。不幸にして製品化されることなく、ただの彫刻に終わってしまったモデルたち。その中でも特に気に入っているのがこれです。
このデジタルカメラは、2000年に、計画されていたパナソニックとライカの提携を念頭に置いてデザインしたもので、初期のライカへのオマージュになっています。
1913年にオスカー・バルナックは、当時は映画用だった35mmフィルムをローラーで送って、コマ撮り撮影できる超小型のカメラを考案しました。それまでのスチルカメラは、一枚ずつフィルムを差し替えて撮影していたのですが、これにより連続的な撮影が可能になりました。
バルナック・ライカ、あるいはウル・ライカと呼ばれる彼の試作品は、レンズの左右にローラーを取り付けただけの極めてシンプルな本体に、ファインダーや測距計などを外付けするシステムカメラとして設計されました。「最小の核と拡張性」、その明快な設計思想ゆえに後の35mmフィルムカメラの原型となっていきます。
新しいデジタルカメラをデザインするにあたって、デジタルのもっともシンプルなユニット構成は何かを考えることから始めました。行き着いたのはレンズと撮像素子(+画像処理エンジンとメモリ)に液晶ファインダを付けただけのモジュール。このミニマルなユニットを核として、バッテリー内蔵のグリップや、ストロボ、液晶パネル、などを外付けにしたシステムカメラ、デジタルの時代の「最小の核と拡張性」の提案でした。
パナソニックが、ライカのレンズを使ったルミックスブランドを展開していったのは、私たちがこれを提案した翌年から。その最初のシリーズのアッパーミドルクラスとして計画さました。
モデルは株式会社日南によるアルミの削り出し。撮影してくれた清水行雄さんもとても楽しみにしてくれたのですが、残念ながら製品化には至りませんでした。パナソニックのデザインカンパニーの人たちもとても気に入ってくれて、このモデルは今でも大切に保管してくれているそうです。
リコーのGXR などを見ると10年早かったのかも。合掌。
先日の展覧会「私が出会ったart&designの本 」に出品した3冊の本と紹介文です。
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デザイナーとは自分が何者であるのか、何を生み出そうとしているのかを、常に自分自身に問いかけ続ける職業であると思います。
その問いかけを必要とする理由は、デザインと言う行為が、自己矛盾をはらんだ刹那的なバランスの上に成り立っているからです。デザインは、人や社会の要請に応えるための、広範な知識や価値観の統合作業であると同時に、一方で、創造の起点を内的な動機に依存しする、きわめて個人的な創作活動でもあります。
それ故にデザイナーは、最初の一歩を踏み出すためのインスピレーションの元となる書籍を待望し、ひとたび歩み始めてからは、自らの位置とつま先の方向を、歴史的かつ社会的に確認するための文献を必要とします。
この3冊は、私に啓示を与えてくれた光源であり、居場所を教えてくれる地図でもありました。「欲望のオブジェ」は、教条的に批判されがちなデザインの資本主義的な役割について、冷静な歴史的視点で解き明かしてくれました。「世界で最も美しい実験」は、実験装置のデザインを通じて、偉大な発見をした科学者たちが、自らの哲学的思索を現実世界に落とし込んで行くプロセスを教えてくれました。 Design and the Elastic Mindは、人が作るものと人の肉体との間の生理的な交感を収集し、様々なインスピレーションを私に与えてくれています。
欲望のオブジェ – デザインと社会 1750-1980
アドリアン・フォーティ 著 高島平吾 訳
発行 1992、鹿島出版会
世界でもっとも美しい10の科学実験
ロバート・P・クリース(Robert・P・Crease)著
発行 2006、日経BP社
Design and the Elastic Mind
Paola Antonelli 著
発行 2008, The Museum of Modern Art, New York
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「欲望のオブジェ」は、最近読ませていただいているブログに「出版禁止処分」として紹介されていました (笑)。出版禁止の理由は、「若いデザイナーが、「ああ、俺が夢見ていたデザインなんて社会にとって何も意味が無いんだ!グレてやる!」と思い込んでしまうから。」だそうです。
グレなかったと思うけどなあ。それともグレたのか。
Takeo Paper Show 2010 [proto-] の大阪展が始まりました。
「水より生まれ、水に帰る」 は、東西の交流周波数の違いで、一部のポンプがうまく動かないというというトラブルに遭遇。
ご存じのように日本の電力供給は、明治の頃に東京ではドイツ製の50Hz発電機が、大阪ではアメリカ製の60Hz発電機が導入され、互いに譲らず勢力を拡大して日本を二分したまま今日に至っています。近頃の電気製品の多くは両方に対応しているので気がつかない人も多いのですが、今回、東京で製作した装置を大阪で展示してみたら、どうも循環用のポンプでカリカリと異音が。
こんな時のために2人も送り込んでおいたのに、一人は新婚生活を大阪のご両親に報告とかで浮かれているし、一人は京都の9hours(柴田文江さんデザインのカプセルホテル)の寝心地が良すぎて遅刻するしで、結構ばたばたしたみたいです。結局、近くの熱帯魚屋さんに走って、大阪製の循環ポンプを手に入れて交換し、予定通り稼働。全体としては問題なく初日の展示を終えました。
最近、ダイソンからエアーマルチプライヤーによるすばらしい実験映像 が公開されましたが、実はこのペーパーショウの私達の作品「風をはらんで、命を宿す」にも4台のエアマルチプライヤーが使われています。私たちもいっぱいいろいろなものを通して実験しました。
後2日間、紙と水、紙と風の戯れを楽しんで下さい。入場無料でっせ。
開場時間:
27日(木) 15:00→20:00
28日(金) 10:00→20:00
29日(土) 10:00→17:00
※入場は終了時間の30分前まで
会場:
松下IMPホール ※会場が変わりました
〒540-6302 大阪市中央区城見1-3-7 松下IMPビル2階
連絡先Tel:06-6941-0941
[交通手段]
・JRご利用の場合=京橋駅 西口改札より徒歩5分
・京阪本線ご利用の場合=京橋駅 片町口改札より徒歩5分
・地下鉄ご利用の場合=長堀鶴見緑地線、大阪ビジネスパーク
駅より改札を出て4番出口より徒歩1分
絵についての私のつぶやきを少しまとめておきます。発端は5月17日の暦本さんのつぶやきに対する答えでした。長文の連作つぶやきとなり、多くの方にRetweetいただきました。
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絵を描くというのは、見る技術です。東大工学部でスケッチを教えるようになってもう20年近くになりますが、最初に教える事は目の前に見えている物の空間構造を捉え直すことから始めます。 Rt @ 絵がうまい人は同じものを見ていてもちがうものが見えているような気がする。 12:19 AM May 17th webから
面白い事に、言語論理的思考の優秀な人間ほどしばしば、「かたち」を見ていない事に気がつきました。「なるほど、わかった」と判断したとたんに、そのものを見なくなるのです。これは人の認知の構造と関わると思われます。 12:22 AM May 17th webから
絵を描く訓練は、わかっている物をあえて捉え直す作業です。従ってよく知っている物ほど正確に書くのは難しい。皆さんは、自分の顔を良く見ているはずですが、自分の眉毛の中点が瞳の真上にあるかどうかを憶えているでしょうか。自画像を何度も描いたことがある人間はそれを知っています。 12:31 AM May 17th webから
美術学校の学生達は、たいていそういう物の見方を以前から知っているので、あまり劇的なことは起こりませんが、東大やSFCで教えていると、あるとき劇的に認識が変わって、何かつきものが落ちたように描けるようになる学生がいます。 12:37 AM May 17th webから
劇的に変わる学生は一部なので、それが隠れた才能だったのかもしれず、本当に授業の効果のほどは、検証できていません。ただ、この授業を初めたときに、学生達の卒論の図が格段にわかりやすくなったと教授達に喜ばれました。 12:48 AM May 17th webから
文章においても論文と詩が違うように、絵においても正確にかたちを描く事と、表現者として感動させる事は全く違います。美術教育においてそのあたりの区別が明確でないことは、とても残念なことです。 12:58 AM May 17th webから
—後にこれに関連して—
絵を描く事は、ものの輪郭を描く事ではない。重要なのは向こう側にあって見えていないものや、中心軸のような仮想の線を描く事。そうやって立体や空間の構造を把握したときに迷いなく輪郭を決定することができる。 1:01 PM May 17th webから
平野敬子さんは、小学生に上がる前、輪郭を描きなさいという先生に「世界には輪郭なんてない」と言って抵抗したそうです。 RT @: 「東京の海を灰色に描ける子供は天才かもしれない」中学の美術の先生が教えてくれたことば。 12:41 PM May 22nd TweetDeck から
「輪郭は物のかたちを理解するときに生じた抽象作用の結果であって、世界に実在する線ではない」という認識には、通常美術をある程度深く学んでから到達します。彼女はそれを初めから理解していたという事ですね。 12:47 PM May 22nd TweetDeck から
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久しぶりに自分の手を描いてみました。手の構造が好きです。
流行の3D映画を見て、小学生の頃にステレオ画像にはまったのを思い出しました。とりあえず1枚作ってみましたので裸眼立体視(平行法) のできる人は試してみて下さい。
ひとつの立体を両目で見たとき、左右の眼の位置が違う分、少しだけアングルの違いが生じます。私たちの脳はこれを照合して立体や空間の奥行きを感じています。これを利用したステレオ写真は、写真が生まれて20年ほどしか経っていない1840年代にはすでに盛んに撮られていたようです。方法は簡単で、左右に並べたカメラで同時に撮る、それだけです。
最近3D映画や3Dテレビも、原理は同じで、特殊な眼鏡をかけることによって、アングルのずれた画像が左右それぞれの眼だけに見えるように工夫されています。
これについて田川欣哉君が、twitterの中で「映像面に対して人が右に左に歩き回っても,奥行きの軸が視点に対して変わるわけではない」ことを上げ、そのことが目や脳の負担につながっているのではないかと指摘しています。
確かに、立体が絵と決定的に違うところは、私たちの移動に対して刻々と姿を変えて行く事だと言えます。上の2枚の絵をうまく左右の目で見れば奥行きを感じることができますが、所詮は絵なので、自分が左右に動いてみてもボールとリングの位置関係は変わりません。流行の3D映像も、昔ながらのステレオ映像に過ぎませんから、その点は同じです。
映画は元々、視点を与える芸術でもあります。カメラワークと呼ばれる、視点の移動、切り替え、視野の変化などによって、日常生活にはない視点で世界を見せてくれます。しかしその手法のままでステレオ立体視を付与することには、どこか無理があるのかもしれません。奥行きを感じられるようになった反面、カメラのある場所に「無理矢理連れて行かれる」感が強まってしまったように感じます。3次元の住人としては、もっと自由に動き回りたくなりますね。
むしろ二次元画面であってもRPGの世界のように、自分が移動できたり、視点を変えられたりすることのことの方が、自然な3D体験であるような気がします。その意味ではステレオ立体視のできるゲームには期待しています。
昨年のモーターショーに行ったとき、ずらりとタイヤが並ぶメーカーのブースの前で、学生達に質問しました。「タイヤの溝は一定ピッチで切られていないのを知っていますか」。
学生達は最初きょとんとしていましたが、どのタイヤもじっくり見てみると、少しずつパターンの間隔が変化しているのに気がつきます。全く一定間隔のように見えるパターンでも、離れた場所を見比べると、ひとつのタイヤの中で歴然と間隔が違うのです。「さて、何故このようにピッチを少しずつ変えてあるでしょう」。残念ながらその場に正解者はいませんでした。
ご存じの方もたくさんいると思いますが、正解は耳障りな騒音を出さないための工夫です。一定ピッチで溝が刻まれているとそれぞれのブロックが一定間隔で地面に衝突するため、ある周波数のビーッという明瞭なノイズが発生します。しかし、パターンに変化があると様々なタイミングで衝突するので、全体としてざーっという周波数の幅のあるノイズになります(ホワイトノイズ化)。そうすることによって耳障りなロードノイズを防いでいるのです。
このノイズ低減方法は結構古い技術のようです。私が大根おろしをデザインするにあたって参考にした、職人技の大根おろしの効率の鍵である、「ランダムさの効用」 がここにもありました。
写真はflickrよりLinderRox氏撮影のものを転載しました。中央のパターンが一定ピッチでないのがよくわかります。