井上雄彦氏による親鸞

Exhibition — yam @ 4月 18, 2011 7:16 pm

井上雄彦さんが「親鸞」の屏風絵を描いたと聞いて、いてもたってもられず京都に行って来ました。

平日の朝一番は人も少なく、ゆっくりと見られました。七百年の歴史を持つ東本願寺の大空間に、百年前の日本画の大家竹内栖鳳の絵と並んで、井上さんの親鸞が違和感なく存在していました。この空間体験そのものに、まずぞくぞくします。

井上さんの屏風は6枚綴りのものが2枚でセット(六曲一双と言うそうです)になっており、右側には、衆生を率いて泥の川を渡る親鸞が描かれています。歩いている老若男女それぞれに、膨大なキャラクターを物語として描いて来た漫画家ならではの存在感がありました。ひとり一人の生活、生い立ちが伝わってくる、まさに「キャラの立った」モブシーンです。

これに対して左側には、静かに花鳥と戯れる親鸞さんが描かれていました。白い余白をたっぷりと取って、一気呵成に描かれた枝、鳥,蝶は、宮本武蔵の絵を思わずにはいられない。中央にふわりと座る親鸞さんの柔らかい表情、繊細に描かれた手指の形になんとも穏やかな幸福感がただよいます。

遠くからながめると、左右の静と動のコントラストが素晴らしく、広大な宗教空間の中に一つの物語を作っています。屏風絵全体を通して「手」の表情も重要なテーマのように感じました。親鸞さんの手だけでなく、それぞれの人の手が深い表情を持っており、手の形から思いが伝わって来ます。

技法的には、井上さんがバガボンドで試みてきた水墨の手法が主体で、木の枝や鳥の翼、渦巻く泥水、衣のシワなどの表情が、墨のにじみやかすれに置き換えられて、禅画のような即興性のある仕上がりになっています。一方で人の顔や手の解剖学的な立体感は、ルネサンス以降の西洋絵画のものであり、老人の深い陰影なども写楽や北斎よりもダビンチに近いように感じました。そしてなにより、どのキャラクターにも、当代一のスポーツ漫画家らしい今にも動き出しそうな動感にあふれています。

今はまだ真っ白な和紙ですが、いずれ竹内氏の絵のように、深い赤みを帯びてくるのでしょうか。多くの人が、売れっ子漫画家が、京都の宗教本山に招かれて屏風絵を書いた事そのものに深い意味を感じるでしょう。私も歴史的な意味を考えずにはいられませんが、井上さんご自身、大きなプレッシャーの中で相当苦しまれたようです。その葛藤は「屏風日記」なるものに綴られています。別室で公開されていたメイキングビデオの中の次の言葉が心に残りました。

「夜中ただひとりでいた時、絵の好きだった少年がこうやって屏風に向かっている事がものすごくうれしくなって来て、あ、今だ、今なら描けると思った。」

その瞬間に、ずっと空白になっていた親鸞の顔に筆を入れたそうです。様々な「意義」や「意味」あるいは「おもわく」を乗り越えて、ただひとりの絵師としての喜びが原点である事を、心から祝福したいと思います。

絵は3月10日に完成したそうです。

(写真は、井上さんの漫画以外の活動をサポートしている(株)FLOWERさんのページから転載)

ゆりかごと核エネルギー

Daily Science,Technology and Design — yam @ 4月 1, 2011 11:06 pm

星空をながめながら、この輝きはほとんどが核融合なんだよなと思うと、不思議な気がします。星の力である核融合と、原発の核分裂は違う現象ではありますが、あらゆる原子が普遍的に内包している核エネルギーを利用している点では同じです。これからの原発を考えるために、少しの時間、宇宙に目をやってみたいと思います。

地球は人類のゆりかごである、しかし人は永遠にゆりかごで生きることはできない

「宇宙開発の父」ツィオルコフスキーは、ちょうど百年前の1911年に友人への手紙の中でこう書いたそうです。彼は、人類が「ゆりかご」で暮らせなくなってしまう可能性についても想像したでしょうか。

地球の最初の生命が約40億年前にあらわれたときから、太陽は安定した核融合炉として地球にエネルギーを供給し続けています。太陽からは放射線もやってきますが、地球の磁気と大気が遮ってくれるので、地上には暖かい光だけが降り注ぎます。地球にも少しばかり放射線を出す物質はありましたが、大規模な核分裂もなく、遠い核エネルギーの恵みを受けながらその脅威とは無縁の世界、それが私たちの地球というゆりかごだったのです。このゆりかごの中では様々な生物達が進化して来ましたが、ごく最近、その末裔である「人類」という生き物が、地上でも核エネルギーが手に入ることに気がつきました。

この発見の前までに人類が使って来たエネルギーは、他の生物達と同様に太陽のエネルギーでした。風や水などの自然エネルギーはもちろん、火をおこす事も太陽の恵みで集められた炭素を燃やすことに他なりません。しかし、太陽の恵みだけで生きるのに限界を感じ始めていた人類は新発見のエネルギーを、(最初は愚かにも同胞を殺すのに使ってしまいますが)やがて夢のエネルギーとして自らの生活を支えるために使うようになりました。

しかし今、多くの人が根源的な違和感を感じ始めています。テレビでは連日核物質の飛散が報道されていますが、そもそも私たちは核物質から発せられる放射線を見る事も感じることもできません。地球の生き物は、太陽からやってくる「光」に対しては上手に適応し、とても高度な感覚器「眼」を獲得しました。凶暴な生き物や環境の変化やなどの様々な脅威から身を守るためにもそれを利用しています。しかし私たちは、自ら生み出してしまった放射線に対しては何も感じないままに、生命の根幹であるDNAが傷つくのを許してしまう。これまでの進化の過程で放射線を感じ取る能力も防御も必要としなかったので、全く無防備なのです。

私たちは震災でダメージを受けた原発の廃棄にすら、恐ろしく時間がかかる事にも茫然としています。そもそも核反応は宇宙スケールのエネルギーであり、人の一生とはタイムスケールが違うのかもしれません。どうやら人類は途方もないエネルギーに手を出してしまった事に気がつき始めました。

おそらく人類が宇宙をすみかとし、自由に動き回るようになる頃には核エネルギーも使いこなしていることでしょう。「自然エネルギー」と私たちが呼んでいるような形のエネルギーは宇宙にはほとんど存在しません。宇宙では宇宙にありふれたエネルギーを使うとすれば、核エネルギーを人類が使い始めたタイミングと、人類の宇宙進出が重なったのは偶然ではないのかもしれません。ツィオルコフスキーが言うように、私たちがゆりかごから出て行く次期が来たのでしょうか。

どうやらここが正念場です。人類が核エネルギーを征してゆりかごを脱するのか、太陽の恵みを見直して、もうしばらくゆりかごで暮らすのか。放射線量や電気使用量のグラフとにらめっこしてしまう日々だからこそ、こんなスケールで考えてみることも大切だと思います。

(写真はNASAハッブル望遠鏡ギャラリーから、星の死滅によるガスの放出。NGC 6302 )

Copyright(c)2024 山中俊治の「デザインの骨格」 All rights reserved. Powered by WordPress with Barecity