パリで見つけた毛細管現象

Daily Science,Sketches — yam @ 10月 31, 2011 7:03 pm

海外の都市を歩くときの楽しみのひとつは、文具屋さんを訪れることです。文房具は単価が安すぎるアイテムや、日本で使う習慣のない道具は輸入されないので、その国独特の文字や紙の文化に触れることができます。

先日のパリ滞在中も、何度も文房具屋に足を運びました。やはりペンの国ですね。本当にいろいろな形のペンがあり、そのひとつ一つが個性的で美しい。日本ではGペン、かぶらペンぐらいの種類しかなく、メーカーが違っても形はほとんど同じですが、パリのペンは、それぞれの形に個性があり、ひとつ一つの書き味が違うのです。その品揃えの豊富さは、日本の毛筆店そっくり。欧米人が日本の書道用の筆を見れば、同じようにそのバリエーションに驚くのでしょう。

ペンも毛筆も、墨液に先端を浸けて一度含ませてから書くのは同じです。どちらも液体が隙間に入り込もうとする性質、毛細管現象を使って基の方に墨液を保持し、巧みに先端に送り出します。

共通する課題は、液体をできるだけ多く含んで、少しずつ安定して送りだすこと。書道用の筆が油絵の筆などと違って、基が太く先端が細くまとまっているのは、たっぷり含んでそれを細く送り出し、長く字を書き続けるための工夫です。ペンのインキを送り出す溝の一番上や中間には、ひとつまたは複数の穴があいていますが、これがインクタンクの役割を果たします。素材や構造は全く違うのですが、西洋のペンも日本の筆も、毛細管現象との戦いがデザインに現れ、先端の太さや墨液の量の違いによって、様々なバリエーションが生まれるのです。

そんなパリの文具店で、ちょっと変わった形のペン先を見つけました(上のスケッチ)。ペンの上にもう一枚金属の板が乗っていて、ペンとその板の間にインクを抱え込みます。どうやらカリグラフィー用のペンらしく、いろいろな幅のものがありました。試しにスケッチに使ってみると、一回インクを付けるだけで結構持つので、なかなか快適。

帰国してから、早速プロジェクトのデザイン・スケッチに使ってみました。いつもボールペンを使っていたので、久々のつけペンは緊張感があります(インク瓶を倒したりペンを落としたりすると、すべてが水泡に帰す…昔良くやりました)。紙はかなりラフな水彩紙を使い、にじみを楽しんでいます。インクは店長さんおすすめの公文書用の黒、「三百年持ちます」だそうです。真っ黒ではなく柔らかいチャコール系の黒です。

原画を使ったプレゼンテーションは、なかなか好評でした。いかにも「原画」なので、ていねいに扱われるのがなんかうれしい感じ。

カリグラフィペンはボールペンに比べるといささか小節(コブシ)が効きすぎるので、どうしても絵のタッチが少し演歌調になりますが、まあこれはこれで良いかなと。準備とお手入れも面倒なのですが、しばらく使ってみようと思います。

ぐっばい。スティーブ・ジョブズ

Mac & iPhone — yam @ 10月 7, 2011 7:20 am

会いたいと思っていた人に、結局、会えないまま終わってしまった。悲しいのかどうかさえわからないが、確かな喪失感がある。

スタンフォードの卒業式での伝説的なスピーチは、iPodでいつも聞いていた。

Connecting dotsという美しい響きの言葉から始まる「過去から見れば、ばらばらにしか見えないことも、未来から振り返って見れば見事につながっている」という一節を聞いては、行き当たりばったりだった自分の若い頃を思い、それをつなげてみた。

「私は偉大なタイポグラフィーが偉大たる所以を学んだ…」というくだりに込められた繊細なものへの愛が好きだった。

「毎日今日が最後の日だと思って生きれば、ある日それは本当になる」には笑った。

「君たちの時間は限られてる。人生を無駄にしては行けない…」以下の言葉にはいつも奮い立たされた。

こんなに何度も何度も聞いたスピーチは他にない。部分的に暗唱できるほどだ。このスピーチの冒頭にTruth be told(ホントのことを言うとね)で始まる一文がある。私がNYで講演を行ったとき、この言葉を冒頭で使ってみたことがある。それを聞いたネイティブの友人は、その言い回しはあまりスピーチにはふさわしくないよと教えてくれた。スティーブのフランクさをまねるのは難しい。

伝聞に過ぎないが、スティーブは、私がアップルのためにデザインしたDrawing Boardを見て「使い物になるのはこれだけだ」と言ったそうだ。アップルの木田さんは「スティーブが他人が作ったものに与える言葉としては、最大限の褒め言葉ですよ」と教えてくれた。

私はここ数年、アップルのデザインが、スティーブの美意識がいかにすごい物であるかを、はばかる事なく話して来た。言うまでもなくそれは、1人のデザイナーとしては敗北だと思う。彼の製品を賞賛するたびに、打ちのめされる自分がいる。賞賛しながら私は、一度もスティーブに面会を求める行動を起こさなかった。もしかすると私は、スティーブが絶賛してくれるようなものを作らない限り、彼に会うことができないと、勝手に思い込んでいたのかもしれない。我ながら屈折している。

スティーブはそのスピーチの中で、こんなことも言う。

Death is very likely the single best invention of Life. It is Life’s change agent. It clears out the old to make way for the new.(死は、生命がなした最も重要な発明に違いない。死は変化の担い手であり、新しいものに道を与えるために、古いものを消し去るのだ。)

その言葉の通りにスティーブは、「古きもの」として去って行ってしまった。少なくとも私は、私が作った物をもう一度、スティーブに見て欲しいという思いからは、離れなければならない。私に、「新しきもの」として道を造る力が、まだある事を祈りながら。

パリの蚤の市にて

Technology and Design — yam @ 10月 4, 2011 1:15 pm

パリのモンパルナスの駅からさらに南へ地下鉄で10分ほどのところ、ヴァンヴでは、毎週末に蚤の市(骨董系がらくた市)が開かれます。L時に曲がった道路に1キロぐらいの範囲で、古い食器や家具や生活小物がずらりと並びます。

ギークな私は、ついつい古い道具や科学の実験道具などに目がいってしまいます。市全体を見渡すと、日本語や中国語の説明がついた、いかにも観光客向けの食器やアクセサリーの店も少なくないのですが、工具を主に売っているような店には素朴な店が多くて楽しめます。

一般的に工具は、とても合理的にデザインされているはずです。その原則は、世界中どこに行っても変わらないようですが、その合理的デザインの結果は、なぜか国によって全然違ってきます。もちろん素材や加工方法の違いがあって、工具の役割自体が違う場合も多いのですが、はさみやのこぎりのように、全く同じ機能、素材であっても民族独特の美意識の違いがくっきり現れます。そのことは、工具の持つ美しさが、必ずしも合理性からだけ生まれるのではないことを示しているように思います。

伝統的な工具は、誰か個人が完成された形をデザインしたものではなく、長い時間をかけて作り継がれる中で、ひとつの形に収束してきました。繰り返し模倣され、改良が重ねられていくうちに、個人のもくろみを超えた美意識が、研ぎすまされ、結晶化されています。その意味で、私に取って海外に行って工具を見ることは、その文化の底流に流れる美の根源に触れることなのです。

蚤の市には、使い方の見当さえつかないものもたくさんあって、店の人に説明を求めると、あまり流暢とは言えない英語で一生懸命説明してくれます。百年以上前のものもあるという(店の親父の説明を信じるならばですが)工具たちが乗っているテーブルの上には、土曜の朝の、のんびりとした時間が流れていました。

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