車輪を持った生き物

Sketches,Technology and Design — yam @ February 10, 2012 5:45 pm

“自転車のすばらしい移動効率を考えると、車輪を持った生き物がいないのは、やっぱり不思議。”

昨年末に私がこんなことをつぶやいたのがきっかけで、生物が車輪を持っていないのは何故かということについてツイッター上で議論が盛り上がりました。

血管がある生き物には360度以上回転する部位を持つことは構造上難しいとか、車輪は直径の1/4以上の段差は登ることができないので、でこぼこの世界に住む小さな生物には意味がないとか、車輪を持てなかった理由について様々な意見をいただきました。一方で、どういう構造であれば既存の生物たちの進化の可能性の中で車輪が持てるかを考えてみるのは面白そうだということになり、いろいろなアイデアも登場しました。その議論については pseudotaro さんがtogetterにまとめてくれたので是非ご覧ください。

生物は進化の過程で車輪をなぜ持たなかったか 山中俊治さんを中心とした会話 – Togetter

そんな中で yamadaggg さんから、「身体をまるめてボールのようにころがる生き物を車輪として寄生させる別の生き物」というアイデアをいただきました。確かに自分の体を丸めて転がることによって敵から逃げる生き物は意外にたくさんいます(ダンゴムシ以外にも、イモムシ、クモ、カエルやトカゲなど)。

そのアイデアを基にしてデザインしてみたのが、上の絵の「車輪を持つハチ」です。議論の中では、車輪を得たとしてもどうやって駆動するかが問題になっていましたので、羽根で推進することにしてみました。図鑑っぽくテキストを作ってみます。

クルマコロガシバチとオオスナダンゴムシの共生:
クルマコロガシバチは、乾燥した土地に住んでいるアシナガバチの一種。春先になると絵のような姿で、乾いた地面の上を高速移動する様が見られる。車輪のように見えるものは、丸まったオオスナダンゴムシ(ワラジムシ目)。日本にいるダンゴムシと同じように外敵の攻撃を受けると硬い甲羅を外にして丸くなる性質を持つが、この季節になると自らを車輪として提供することによって、クルマコロガシバチとともに繁殖地を目指して砂漠を北上する。その移動距離は時として数百キロにも及ぶ。
クルマコロガシバチの六本の足のうち、中足が大きく発達しており、丸まったオオスナダンゴムシの中心を左右から抱え込んで車軸の働きをする。それをオオスナダンゴムシの七対の柔らかい足が包み込むことによって、摩擦の少ない柔軟な軸受けを形成し、その結果、ハチの羽ばたきによる推進力だけで、乾燥した平坦な土地をころころと移動することが可能になる。
クルマコロガシバチがなぜ単純な飛行をせず、このような移動を行うのについては、まだ十分に解明されていないが、移動中のクルマコロガシバチがオオスナダンゴムシから水分を得ているという説もある。一般的に、アシナガバチの仲間は繁殖のために他の虫を捕獲する習性を持つもが多いが、この二つの虫は大移動のためだけに共生していて、目的地に到着するとそれぞれの生活圏に別れて繁殖し始める。

私たちは、遠い昔から品種改良によって、様々な生き物を自分たちの都合が良いように改良してきました。そしていよいよ遺伝子を操作し、生物そのものも改変しようとしています。善かれ悪しかれいずれ私たちは、生物を自在にデザインすることになるでしょう。そんな日に備えての、ちょっとした思考実験でした。

有人小惑星探査船 その3

SFC,Sketches,Technology and Design — yam @ January 4, 2012 5:26 pm

宇宙船デザインの話の第3回、これで最後です。

探査船のサイズや形は、全体の行程と密接に関わっています。最初に選定した行き先候補である3つの小惑星それぞれに、必要な燃料の量がかなり違うので一概には言えませんが、中央の居住区は直径約10m、タンクを含めた直径は小さくても約30mになりそうです。構造質量だけで数十トン、燃料を含めた出発時重量は数百トンのかなり巨大な宇宙船です。

ミッション開始にあたっては、まず、たくさんのロケットで繰り返し部品や推進剤タンクが打ち上げられ、軌道上で組み立てられます。最後に乗員も打ち上げられ、完成した居住区に乗り込み、いよいよメインエンジンが点火されて出発。フル加速で(といってもせいぜい1Gで数分、0.3Gで数十分ですが)地球軌道を脱します。

空になったタンクは、航行の各段階ごとに捨てられて行きます。タンクだけでなく、最終的にはこの宇宙船はその大部分を宇宙に放棄して帰ってくることになります。もったいないと思うかもしれませんが、再利用のために丈夫にすると重くなりますし、それを持って帰るのにも燃料がいるので、できるだけ薄く作って使い捨てていく方が合理的で現実的なのです。(スペースシャトルは、回収、再利用のできる経済的な宇宙船として華々しくデビューしましたが、結果的にはメンテナンスと打ち上げのコストがかさみ、財政上の悩みのタネになってしまいました。)

上のモックアップの写真は、行きの加減速を終了し、小惑星にたどり着いた頃の形です。すでに多くのタンクを放棄し、帰路の加減速に必要な推進剤だけを保持しています。下の図は全体行程を図式化したものです(クリックで拡大)。

約3ヶ月後、ようやくこの宇宙船は目標とする小惑星から数百メートルの距離まで近づきます。直接に小惑星に着陸することはせず、ひとり乗りの探査ポッドが射出されて小惑星の一角に着陸することになるでしょう。小惑星の重力は非常に小さいので、着陸というより「しがみつく」が正しいかもしれません。

いくつかのミッション(サンプルの採取や観測装置の接地、計測、実験など)が実施され、それが終了すると帰路につきます。さらに約3ヶ月をかけて再び地球軌道上に戻ってきます。

地球の軌道上に戻ってくるころには推進剤タンクはすべて放棄され、中央の多面体の居住区とその先端についた再突入カプセル(先端の円錐状の部分)だけになっています。3人の乗組員が再突入カプセルに移乗し、最終的には居住区も放棄され、カプセルだけが大気圏に突入します。パラシュートで海上に着陸したカプセルを地上班が回収してミッション終了になります。偉業を達成した3人は熱狂的な出迎えを受けることになるでしょう。

以上、長い初夢でした。そう言えばこの宇宙船、まだ名前を付けていません。公募したりすると、なんとなく国家プロジェクトっぽくなるかな。

*写真:清水行雄

有人小惑星探査船 その2

Sketches,Technology and Design — yam @ January 3, 2012 7:26 pm

引き続いて有人小惑星探査船のデザインのお話。

この宇宙船のデザインに特徴的なのは、中央の居住区を放射状に取り囲んだ推進剤タンクです。話題となった無人探査機ハヤブサは、とても少ない燃料(推進剤)で時間をかけて小惑星イトカワまで往復しました(7年もかかったのは予定外ですが)。しかし有人機では、過酷な宇宙空間に人が滞在する時間をできるだけ短くする必要があります。そのために膨大な小惑星を精査して、最短で行ける目標を選んだのですが、それでもかなり加速してスピードを上げて航行し、ブレーキ(とはいえ、加減速とも1G以下ですが)をかけて小惑星にランデブーすることになります。宇宙では加速にも減速にも膨大な推進剤を使うので、出発時の船体は推進剤タンクの固まりのようになります。

これをデザインするにあたって、最初は学生たちと一緒に、いわゆる「宇宙船」っぽいスケッチを描いていたのですが、何度も野田さんからダメ出しされました。「そもそも船体を前後に長くしたり、全体にまとまり感を与えたりする必然性ないから」と。

言われてみればスピード感のような美意識は、無意識に流体中の移動体が持つ合理性を引きずっていています。加速度も大きなものではないので、過度に剛性や強度を持たせて重くすることは推進剤のロスにつながります。広大な宇宙で組み立てるので、コンパクトにすることにもさほど意味はありません。スケッチを描きながら、私たちが持つ「カッコイイ」という感覚が、空気や水と重力の影響をいかに強く受けているかを思い知らされました。

議論の末、中央の推進軸上に居住区を置き、それを取り囲むように推進剤のタンクを放射状に配置することにしました。宇宙空間での組み立てやすさ、切り離しやすさに配慮すると同時に、居住空間を囲むことでいくばくかの宇宙線の遮蔽効果にも期待しています。4機のスラスターの反対側(先頭?)には円錐状の再突入カプセルがあり、本体の影にならないよう少し前方の離れた所に、太陽電池パネルが展開されています。

この不思議な船体が、重力の影響をあまり受けずに水の中を漂うように生きるクラゲの幼生や藻のような印象なのは、偶然ではないような気がします。実際、宇宙機の航行は「飛ぶ」というよりも「漂う」に近いのです。

下は居住区のスケッチです。3人の宇宙飛行士は6ヶ月間、ほとんどの時間を無重量状態で過ごします。ついつい上下のない自由な内装をデザインしたくなりますが、どうやらそれは宇宙飛行士に多大な心理負担をかけることがわかってきました。初期の宇宙船では上下のない内装も少なくなかったそうですが、現在のISSなどでは、はっきりと上下がわかるようにデザインされています。

居室は全部で五つ。中央に食堂があり、周囲にラボ、寝室、ジム、与圧室が配置されています。至る所に「手すり」があり、ディスプレイなどが、その手すりに細いアームで柔らかく固定されています。こんなに突起があるとぶつかってケガをするのではないかと思うかもしれません。しかし、無重量状態では基本的に「転ぶ」ことがないので、思い切って壁を蹴らない限り、どこかに強く頭をぶつけることもないそうです。

その3に続きます。

パリで見つけた毛細管現象

Daily Science,Sketches — yam @ October 31, 2011 7:03 pm

海外の都市を歩くときの楽しみのひとつは、文具屋さんを訪れることです。文房具は単価が安すぎるアイテムや、日本で使う習慣のない道具は輸入されないので、その国独特の文字や紙の文化に触れることができます。

先日のパリ滞在中も、何度も文房具屋に足を運びました。やはりペンの国ですね。本当にいろいろな形のペンがあり、そのひとつ一つが個性的で美しい。日本ではGペン、かぶらペンぐらいの種類しかなく、メーカーが違っても形はほとんど同じですが、パリのペンは、それぞれの形に個性があり、ひとつ一つの書き味が違うのです。その品揃えの豊富さは、日本の毛筆店そっくり。欧米人が日本の書道用の筆を見れば、同じようにそのバリエーションに驚くのでしょう。

ペンも毛筆も、墨液に先端を浸けて一度含ませてから書くのは同じです。どちらも液体が隙間に入り込もうとする性質、毛細管現象を使って基の方に墨液を保持し、巧みに先端に送り出します。

共通する課題は、液体をできるだけ多く含んで、少しずつ安定して送りだすこと。書道用の筆が油絵の筆などと違って、基が太く先端が細くまとまっているのは、たっぷり含んでそれを細く送り出し、長く字を書き続けるための工夫です。ペンのインキを送り出す溝の一番上や中間には、ひとつまたは複数の穴があいていますが、これがインクタンクの役割を果たします。素材や構造は全く違うのですが、西洋のペンも日本の筆も、毛細管現象との戦いがデザインに現れ、先端の太さや墨液の量の違いによって、様々なバリエーションが生まれるのです。

そんなパリの文具店で、ちょっと変わった形のペン先を見つけました(上のスケッチ)。ペンの上にもう一枚金属の板が乗っていて、ペンとその板の間にインクを抱え込みます。どうやらカリグラフィー用のペンらしく、いろいろな幅のものがありました。試しにスケッチに使ってみると、一回インクを付けるだけで結構持つので、なかなか快適。

帰国してから、早速プロジェクトのデザイン・スケッチに使ってみました。いつもボールペンを使っていたので、久々のつけペンは緊張感があります(インク瓶を倒したりペンを落としたりすると、すべてが水泡に帰す…昔良くやりました)。紙はかなりラフな水彩紙を使い、にじみを楽しんでいます。インクは店長さんおすすめの公文書用の黒、「三百年持ちます」だそうです。真っ黒ではなく柔らかいチャコール系の黒です。

原画を使ったプレゼンテーションは、なかなか好評でした。いかにも「原画」なので、ていねいに扱われるのがなんかうれしい感じ。

カリグラフィペンはボールペンに比べるといささか小節(コブシ)が効きすぎるので、どうしても絵のタッチが少し演歌調になりますが、まあこれはこれで良いかなと。準備とお手入れも面倒なのですが、しばらく使ってみようと思います。

世界は円柱でできている

Bones,Daily Science,Sketches — yam @ May 23, 2011 10:40 am

ポール・セザンヌは友人への手紙の中で、「自然を円柱、球、円錐として扱え」と書いたそうです。その意味については諸説あるようですが、私が工業製品のデザインスケッチを描くときにも、この3つの立体が起点になる事は確かです。工業製品の場合、モーターやヒンジやギヤなどの動く所はほとんど中心軸を持つ回転体で、大小さまざまな円柱や円錐が折り重なって主な構造体を作っています。四角い立体のコーナーの丸みも、立体として捉えればたいてい1/4円柱になります。

人体の場合も、体の各部を円柱、球、円錐に置き換えて構成して行くと描きやすくなります。実際、漫画の入門書などにもそんなことが書いてある。しかしこれだと、デッサンの基本の話でしかありませんね。セザンヌのこの言葉は、美術の教科書には、キュビズムの夜明けとして引用されているようですし、上の絵などを見るとこの時代としては新しい形の見方だったのかもしれません。でも、実はセザンヌも、単に友人にデッサンのコツを教えていただけだったりして。

これに関連して、科学ジャーナリストのこばやしゆたかさん(@adelie)さんのつぶやきで、あることを思い出しました。「象の時間ネズミの時間」で有名な本川達夫さんは、全ての生物の体は「円柱形」であると主張しています(歌まで作ってる!)。発生学者の倉谷滋さんも以前お会いしたときに、「節のある円筒が生物の基本構造だ」と話してくれました。福岡伸一さんも著書の中で、「人間は考える管」であると。

確かに生き物の体は、「管」が基本になっています。ミミズのような非常に原始的な動物は口から食物を入れて後ろから排泄する単なる管になっていて、進化とともにいろいろ複雑にはなったものの、多くの動物の基本構造はみな同じです。手足などの骨も全て大まかには中心軸の周りに対象な円筒または管になっていますし、樹木などの植物は、まさに枝分かれする円柱そのものです。

もしかすると、自然を見ることに優れたセザンヌは、動植物の普遍的構造である円筒を直感的に感じ取っていたのかもしれません。セザンヌの直感と生物の基本形が、なんかぴたっとつながってとてもうれしくなりました。芸術にも造詣の深い本川先生の事だから、どっかでセザンヌくらい引用してそうですが。

上の絵はセザンヌの「カード遊びをする男達」。下のスケッチの右側の生き物はベルベットワームです。(ベルベットワームは有爪動物という体の部品がほとんど管でできている原始的な動物。動画を一応リンクしておきますが、気の弱い人は見ない方が良いです。)

手を描いてみましょう

Bones,Sketches — yam @ February 18, 2011 12:22 am

先日twitterでこんなことをつぶやきました。

手をうまく描くコツは、丸い板に五本の指が生えている物として描くのではなく、手首から5方向に分かれている長い指があって、最初の関節までは肉が間を埋めているものとして描く事だ。(Feb 10, 1:00am

これに対し、「ほんとだ。生まれて初めて手が描けた気がする」というコメント付きで、米国在住の木田泰夫( @kidayasuo )さんが描いて、公開してくれたのが上のスケッチです。右の絵は「丸い板に五本の指」として描かれていますが、左は「手首から5方向に分かれている長い指の間を埋める」ように描かれています。左の絵の方がずっと手らしく見えますね。

木田さんは、「ことえり」をはじめとするアップルの日本語環境の開発責任者であリ、アップルを代表する技術者の一人です。おそらく絵を描くことに慣れてはいらっしゃらないと思うのですが、即興で、実に飲み込みの良いスケッチを描いてくれました。以前にも私は「形を描こうとしてはいけない。構造を描くことによって自然に形が生まれる。」などと言って来ましたが、このスケッチは骨のつながりを理解して描くことの大切さを伝えてくれる好例だと思います。

私たちは、しばしば「見たままに描く」ことにこだわります。しかし私たちの眼がカメラと一番違うのは、入って来た図像をそのまま焼き付けるのではなく、直ちに対象の意味を理解し、それに解釈を加えて記録することです。

視覚情報を直ちに解釈することは私たちが世界を理解する上ではとても大切なことなのですが、その解釈が絵を描くことを邪魔する場合もあります。手を見て丸い板に五本の棒が生えているものと理解することは、実生活上は実用的かもしれませんが、指と指の相互関係を見失わせます。そこで、見えない部分の解釈を付け加えることによって、指と指、指と手首の関係がはっきり意識させると、手らしい手を描くことができるのです。

このつぶやきに対し、恐竜などの古生物の図鑑のイラストなどをたくさん描いていらっしゃるイラストレーターの小田隆( @studiocorvo )さんから、「見かけ上、手の甲側からと手のひら側からでは、指の長さが違っている」ことも重要だという助言をいただきました。下記のブログで、模範ともなる素晴らしい手の絵を見ることができます。

鴉工房: 手を描く1

ツイッターがきっかけになって、海外の人もプロの人も一緒に手の絵を描いてみる。そんなつながりをうれしく思った夜でした。

(イラストは木田さんのflickerページからの転載です)

巨大マンタのあたまびれ

Daily Science,Sketches — yam @ December 29, 2010 10:40 pm

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沖縄の美ら海水族館は、何時間いてもあきない場所の一つです。大水槽を泳ぐ数体のジンベイザメが有名ですが、同じ水槽の中で巨大なマンタ(ナンヨウマンタ)に会えるのも楽しみの一つ。深さ10m幅35m奥行き27mの大水槽の、厚さ60センチのアクリルパネルの向こう側を羽ばたくように泳ぐ、幅4メートルのナンヨウマンタは優雅そのもの。世界で最も美しい生き物の一つと言えるでしょう。

ナンヨウマンタの口の両側には頭鰭(とうき・あたまびれ)と呼ばれるヒレがあり、これがとても面白い動きをします。このヒレは、高速巡航時には、円錐状に丸まって、口の両側に牙のように前方に突き出されていますが、方向を変える時や何かを食べるときには、下方にするすると展開され、舵と触角の役目を果たします。

頭鰭は外側に向かって巻き上げられるのですが、とても不思議な感じがします。私たちの手のひらが体の内側に向かって折り曲げられることや、いろいろな動物の手足が内側に向かって折り曲げられるのを見慣れているせいでしょうか。泳ぐ方向を変えるたびに片方ずつヒレを巻いたりのばしたりする所を見ていると、なんだか未知のテクノロジーを使った異星人の乗り物を見ているような気持ちになって来ます。

オニイトマキエイと呼ばれてきたこの巨大なエイは最近になって、オニイトマキエイManta birostris とナンヨウマンタ Manta alfredi の2種類に区別されることになりました。美ら海水族館始め日本の水族館にいるのはナンヨウマンタで、改めてオニイトマキエイと呼ばれるようになった種は、もっと巨大で滅多に人とは交流しない大回遊魚だそうです。動画は、マンタに2種類があることを発見した、オーストラリアの研究者アンドレア・マーシャルのインタビュー。頭鰭の動きがよくわかる美しい映像が連ねられています。

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トロメオ:36歳の建築家と52歳の照明技術者の共作

Sketches,Technology and Design — yam @ December 10, 2010 11:14 am

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デスクランプ「トロメオ Tolomeo 」は、今更私が言うまでもなく、二十世紀を代表するデザインであり、世界で最も親しまれている照明器具の一つです。

デスクランプとしては比較的オーソドックスな構造なのですが、それが恐ろしく洗練されていいて、機能とスタイルの完璧なバランスが、まるで機能美の教科書のよう。素材の使い方も理にかなっており、仕上げも精緻で、アルミという金属の魅力を存分に伝えてくれます。

特に感心するのは、一見すべての構造を露出しているように見えながら、ハーネスやスプリングなどの部品を巧みにアームの中に隠すことによって、幾何学的な美しさを際立たせていることです。構造と力学、製造技術をよく知りながら、それを高い美意識でコントロールしており、並外れた芸当と言えます。

この照明器具を初めて見たとき、めまいがしました。駆け出しのデザイナーであった私の理想のデザインがそこにあって、これをやられてしまったら自分はどうしたらいいんだろうという感覚。しかもメカニカルなディティールのちょっとした形の癖までがツボ中のツボ。私はトロメオの実物を90年頃に手に入れましたが、影響されてしまうのが怖くて、スケッチしてみたのは今日が始めてです。

トロメオという名前はエジプトの王朝プトレマイオスのイタリア名なのだそうです。この古き王の名を戴く照明器具をデザインしたのがミケーレ・デ・ルッキであることが一般的には知られていますが、メーカーであるアルテミデのサイトではミケーレ・デ・ルッキとジャンカルロ・ファッシーナの連名になっています。

1951年生まれの建築家ルッキは、すでに巨匠と言われる存在で、今も精力的に作品を発表し続けています。しかし、その多くは機能的というよりも、ユーモラスであったり象徴的であったり、むしろアーティスティックな作品が並びます。

一方、ファッシーナ Giancarlo Fassina は日本ではあまり知られていません。そこで少し調べてみると、1935年生まれの照明および照明器具を専門とする技術系デザイナーのようです。いくつかの建築事務所を渡り歩いた後1970年にアルテミデに入社し、技術者として多くの建築家やデザイナーと共同で照明器具を開発しています。

二人の経歴と関わった作品をながめていると、トロメオ誕生の経緯が見えて来ます。トロメオがデザインされた1987年にはルッキは36歳、ファッシーナは52歳でした。勝手な想像なのですが、気鋭の建築家の美的感覚を、経験豊かな照明技術者の技術力が支えることによって、この世紀の傑作が生まれたのではないでしょうか。

優れたデザイナーと優れた技術者の出会いが優れたデザインを生む構図は、やはり普遍的なもののようです。

マンガを世界に普及させた原動力

Sketches,Works — yam @ October 17, 2010 8:49 pm

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明和電気の土佐信道(@MaywaDenki )さんがtwitterでこんな事をつぶやきました。

井上雄彦氏の巨大なバカボンドの壁画を見たとき、絵が大きくなっても受ける印象が同じことに驚きました。画家の場合スケールは即、肉体作業に影響して絵の印象が変わってしまうのに。10月16日

以前拝見した、坂井直樹さんのオフィスにある木村英輝氏の壁画からは、描いた人の身体運動がひしひしと伝わってきました。画家である木村氏にとっては、壁を選んだ所から芸術行為が始まり、壁との格闘そのものが作品です。従って絵を描く場所や大きさが違えば、体の使い方の違いが作品にあらわれ、画題そのものも変化します。

これに対して漫画家である井上雄彦氏は、黒板だろうと美術館の壁だろうと、紙面と変わらぬ印象のキャラクターを巧みに投影します。おいそれとできる事ではないのですが、多くの漫画家の理想はここにあります。紙が違っても、サイズが違っても物語の世界は変わらない。漫画家の頭の中には創作された世界があり、マンガを描く行為はそのプロジェクションなのです。

どこにでも、物語世界を投影できるというマンガの特性は、マンガがとても低レベルの印刷で普及してきた事とも関わりがあるような気がします。一般的に漫画誌は非常に低コストで作られています。特に少年少女向けの週刊コミック誌は、印刷も紙質も最低レベルと言えるでしょう。単行本では少し紙の質は上がるものの、今度は極端に縮小されます。

こうした出版状況に対応して、マンガは、独特のコントラストの強い白黒画になりました。くっきりとした描線と黒ベタが多用され、中間調のグレーを表現する時は、線を掛け合わせるか、スクリーントーンというドットが使われます。通常のカラー印刷では、1インチあたり175個の細かいドットで色調を表現しますが、マンガ原稿のトーンは、1インチあたり70個以下。水彩画では普通の技法である「かすれ」や「にじみ」も原則は使えません。多くの漫画家はこの印刷限界に泣かされながらも、その中での表現の可能性に挑戦してきました。

実は、コストとの戦いで磨き上げられたこの独特の技法は、マンガが海を越えて普及して行くためには好都合でした。輸出先の印刷レベルがどうであれ、世界中のどこで印刷されてもその物語世界が失われないのです。初期のインターネットの低解像度データにおいても、キャラクターの魅力は保たれました。この強靭さが、日本のマンガを世界に普及させる原動力のひとつだったと言えるでしょう。

上のマンガは、雑誌アクシスに依頼されて数年前に私が描いたもの(別ページ)。デザイン雑誌なので印刷は高精細なのですが、あえてマンガらしく描いてみました。

今や、漫画の製作環境も作品を発表する場もネットへと広がり、低レベルの印刷表現の時代は過去のものになりつつあります。マンガという物語世界のプロジェクションが、紙と印刷から離れ、新しいメディアの上でどのような表現を獲得して行くのか、かつて漫画家をめざした者として、とても興味があります。

車を自分で運転しなければならなかった時代

Sketches,Technology and Design,Works — yam @ October 12, 2010 2:00 am

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かつて自分がデザインした、Infiniti Q45という車を一応今も所有しています。可哀想に、ほこりをかぶったまま駐車場にじっとしていますが、今朝ふとそれを眺めて、あらためて長い車だなと思いました。人間5人を運ぶのに5メートルもの長さ。それだけで時代を感じさせます。

Googleが自動運転の車を開発している事が話題になっています。注目は「ストリートビューカー」が収集している膨大な地図データを利用するという事。自動運転というとロボットカーレースのようにカメラやセンサーで状況を判断して走る車をイメージしますが、「世界中の道を熟知する車」という新しい方向性が見えてきました。ニュースによると「交通事故と炭素排出を減らし、人々の自由時間を増やすことが、プロジェクトの目標」だそうです。なんだか懐かしい言葉だと思いました。

1950年代から60年代に、様々な科学者や社会学者、市民運動家などから、個人所有の車の急増を危惧する声が上がりました。いわゆるマイカー論争です。「膨大な死者が出るシステムを放置するのは行政の怠慢だ。」「車を都市に導入する社会的コストはメリットを遥かに上回る。」「やがて深刻な大気汚染を生むことになる」そうした意見は、結果的にみて正しかったとも言えるのですが、結局人々の所有願望に押し流される形で、モータリゼーションが進行しました。そして、乗用車への消費意欲が薄れたと言われる今だからこそ、マイカー論争で指摘された問題の根本的な解決に、ようやく乗り出そうとしているのかもしれません。

Googleのエリック・シュミットCEOは、「自動車は自動で走行すべきだ。自動車の方がコンピュータより先に発明されたのは間違いだった」と語ったそうです。

かつてパーソナル・コンピュータにも、「自分でプログラムしないと使えない箱」の時代がありました。この箱はオフィスに大量導入され、ビジネスマン達が大挙してプログラミング講座に通う事が社会現象にもなりました。パソコンのそうした黎明期はあっという間に終わりましたが、長かった運転教習の時代も終わろうとしているのかもしれません。二十世紀は「車を自分で運転しなければならなかった時代」として記憶されることになるのでしょうか。

自分で運転しなくなっても、カー・デザインの未来を悲観する必要はないと思います。コンピュータを見れば、ユーザーが自分でプログラムしないと使えない箱の時代より、今の方が遥かに魅力的で、生活文化として花開いています。長い修練を必要とする複雑な操作系から解放されたとき、人に寄り添う移動装置としての新しいデザインが問われることになると思います。

絵は1986年、日産にいた最後の年に描いたQ45の、ファイナル・スケッチです。

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