亀の井別荘のスーパーノーマル
湯布院に亀の井別荘という旅館があります。今更私がここで何かをいうのもむなしいほど、いろいろな雑誌やブログで絶賛されています。それでもちょっと書きたくなりました。
一言でいうとデザイナー泣かせの旅館です。いわゆる「良くデザインされている」と言えそうなところが見当たらないのです。調度品にも特別な感じはなく、庭の造りも一見無造作。にもかかわらず、空間自体に圧倒的な居心地の良さがある。これはなんか不思議だなと歩き回っているうちに、二つのことに気がつきました。
まず、不愉快な色がどこにもないのです。決してミニマルな空間ではなく、必要なものはなんでも揃っているのですが、調和を壊すような質感や色彩が丁寧に除かれている感じ。
もうひとつは、恐ろしいほどに掃除とメンテナンスが行き届いていること。廊下の明かり取りの桟にすら、ほこりが積もっていないのです。信じがたくて、嫁チェックする姑みたいに、指でいろいろな隅っこをなでてしまいました。
共通して言える事は、美意識などという尊大なものとは無縁の、ただ丁寧に「あく」を取り除く作業があらゆる所に行き届いていることでした。「スーパーノーマル」ってこういうことを言うのかも。
どうせ写真ではこの魅力は伝わらないと思いつつさまよっていたら、裏方の作業場でとても美しい光景に出会いました。ムシロを干しているのでしょうか。こういう日常があの居心地を支えているのですね。
帰りがけに、絵のように凛とした風格の女将に挨拶されて、問うてみました。
「ここは、全体で何人泊まれるのですか。」
「60人の方にお泊りいただけます。」
「ここでは何人の方が働いていらっしゃるのでしょう。」
「そうですねえ。レストランとかも入れると百人ぐらいでしょうか」
一万坪の土地にたった60人の宿泊者、そしてその1.6倍の従業員。スーパーノーマルの秘密の一端に触れたような気がしました。
私は、サービスの意味を考えるときがあります。
タイにおりますと、リゾートを満喫できる観光地は、たくさんあるのですが、対投資効果で選択が決まるんだろうと思いました。
つまり、金次第です。
そこで、日本に戻ります。
由布院のような恵まれた環境であれば、出せるお金=投資に見合うお客さんも来られるとは思います。
でも、日本人は、限られた制約条件(お金)の中で、楽しみを見出すことに喜びを感じているのではないでしょうか。
それを、もてなしと言うのであれば、ひなびた温泉宿であっても日本人は以外に満足するものです。
そこで、話しは山形県の銀山温泉になります。
ここには、藤屋という小さな旅館があり、ジニーさんというカリフォルニアから来たお上さんが切り盛りしていました。
テレビにも取材されて話題になったし、ジニーさんもCMにでて山形弁の日本語が印象的でした。
でも、宿は今風のデザインで改装しました。
一泊三万円から五万円になり、かつての湯治客達は泊まることもできなくなったのです。
そして、ジニーさんは祖国に戻り、離婚を希望されておられるとのことです。
残念ですが、もてなしの意義を取り違えたケースだと思うのです。もてなしに、伝統の意義を加えてサービスを開発することも必要です。
結局は、ジニーさんはおしんではなかったし、祖国に戻ったのでした。そんなことを感じました。
>空間自体に圧倒的な居心地の良さがある。
>調和を壊すような質感や色彩が丁寧に除かれている。
デザインとは今や多種多様な意味合いを持って、学問としても広く枝が広がっています。
でも、おっしゃるこの2つの事が昔からの日本人のデザイン意識と呼べるものなのかもしれません。
古民家の仕事をしたことがありますが、その時の事を思い出しました。
ぐりぐりももんがさん
確かに亀の井別荘のプライスは、親しみやすい旅館のものではありません。しかし、「至高」と力んだところも、かといって「ひなびた」を狙ったところも全くなく、高級感とは別な上質を提供し続けているところに「湯布院のような恵まれた環境」をゼロから作り上げた人々の底力を感じました。
coさん、こんばんは。
そうですね。清掃と修繕、そして緩やかな調和を丁寧に保つ事こそが本来の美意識であり、それをいつのまにか尊大なものにしてしまったのは、デザイナーである私自身なのかもしれません。
ありがとうございました。精進します。
[…] 途中の「無名の質」という言葉で、私はデザイナー山中俊治さんのブログで見た「亀の井別荘のスーパーノーマル」という記事を思い出してしまいました。 […]