タイヤの刻みが一定じゃない話

Daily Science — yam @ 5月 19, 2010 10:14 pm

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昨年のモーターショーに行ったとき、ずらりとタイヤが並ぶメーカーのブースの前で、学生達に質問しました。「タイヤの溝は一定ピッチで切られていないのを知っていますか」。

学生達は最初きょとんとしていましたが、どのタイヤもじっくり見てみると、少しずつパターンの間隔が変化しているのに気がつきます。全く一定間隔のように見えるパターンでも、離れた場所を見比べると、ひとつのタイヤの中で歴然と間隔が違うのです。「さて、何故このようにピッチを少しずつ変えてあるでしょう」。残念ながらその場に正解者はいませんでした。

ご存じの方もたくさんいると思いますが、正解は耳障りな騒音を出さないための工夫です。一定ピッチで溝が刻まれているとそれぞれのブロックが一定間隔で地面に衝突するため、ある周波数のビーッという明瞭なノイズが発生します。しかし、パターンに変化があると様々なタイミングで衝突するので、全体としてざーっという周波数の幅のあるノイズになります(ホワイトノイズ化)。そうすることによって耳障りなロードノイズを防いでいるのです。

このノイズ低減方法は結構古い技術のようです。私が大根おろしをデザインするにあたって参考にした、職人技の大根おろしの効率の鍵である、「ランダムさの効用」がここにもありました。

写真はflickrよりLinderRox氏撮影のものを転載しました。中央のパターンが一定ピッチでないのがよくわかります。

ミニカーは実車の縮小ではない

Daily Science,Works — yam @ 5月 14, 2010 5:46 pm

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乗用車のミニカーは、実物の単なる縮尺ではないのをご存知でしょうか。クルマの設計製造に使われるボディの三次元データを使って、例えば1/43とかに縮小して精密加工でモデルを作れば、完全なミニカーができるはずです。ところがそのようにして作られたモデルを実際に見てみると、ちっともらしく見えないのです。

実際にカーデザインの現場で、正確なスケールモデルを何度か見たことがありますが、その印象は一言で言うと、ぺらぺら。実物を見ると抑揚の強いスポーツカーのボディも、縮小するにつれて、フラットな四角いクルマに見えてきます。

この「スケールによる曲面感度の差」について、ちゃんと調べた文献に出会ったことはないのですが、デザインの現場ではポピュラーな知識です。駆け出しのカーデザイナーだった頃に、スケールモデルと実物の違いについては十分気をつけるよう注意されました。乗用車をデザインする時は、最初はスケールモデルを作って、拡大して実物大にするのですが、その時点で、改めてデザインし直す必要があるのです。

曲面のニュアンスと大きさの関係をちゃんと認識しておかないと、CADで工業製品をデザインするときにも結構厄介なことになります。コンピュータの画面ではどのような縮尺で表示する事も可能なので、なかなかスケール感がつかめません。

例えば腕時計などは、画面上では随分大きく表示できますが、この状態で角を柔らかく造形したつもりでも、できてみるとシャープ過ぎてびっくりというようなことが起こります。逆に乗用車では、表現が大げさすぎて、笑っちゃうようなものになったり。画面に人物のモデルを配置して比較してみたりしても、あまり効果はないようです。小さなものは小さいサイズで、大きなものは大きいサイズでデザインしろという事ですね。

最初の話に戻ると、市販のプラモデルやミニカーでは、原型師と言われる人たちが彫刻のように手で削って、実物と同じ印象になるよう曲面を作ります。ある意味「正確』ではないのですが、そうやって人の感覚で作った物が結局、一番「らしく」見えるのです。

Fig: INFINITI Q45 and OVO wristwatch, photo by Yukio Shimizu.

ジャンボに込められた美意識

Daily Science — yam @ 5月 5, 2010 4:59 pm

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田川欣哉君が、まだ私のスタッフだった頃に、20世紀最高のデザインは何ですかと私に問いかけたことがあります。ぱっとついて出たのは「ボーイング747」でした。昨年、「クラシック・ジャンボ」と呼ばれるオリジナルシリーズ最後の747の現役引退が話題になりましたが、その時の会話で私がイメージしたのは、この初期型のジャンボでした。

私は「航空機を作る」という本を制作したときに、ボーイング777の開発プロセスを半年かけて取材しました。777は、”Working Together”というかけ声のもとに、全世界の航空会社や部品メーカーを巻き込んで、徹底した合議制で作られた飛行機です。ボーイング社は、広範なニーズ調査から出発し、運用の現場から要望と問題点を吸い上げ、製造の現場からも改善提案を募ることによって、市場にきめ細かくフィットし、高品質、低運用コストの航空機を作り上げました。

どこかで聞いたようなものづくりですが、それもそのはず、開発責任者の何人かは、トヨタをはじめとする1980年代の日本メーカーに学んだ開発プロセスであると明言しています。その結果、777は機体故障が極端に少ない航空機として、近年では最も成功した機種となりました。

でも私は何か物足りなさを感じていました。有り体に申せば、777の設計には美意識のようなものが希薄だったのです。

一方、747という航空機の構造や外観には、たまたまそうなったというような曖昧な物ではく、はっきりとスタイリング上の意思を感じます。ジャンボを特徴づけるコクピット周辺の豊かなボリュームと、ピンと跳ね上がる巨大な尾翼をつなぐ緊張感のあるライン。それを中央で支える主翼の付け根のたくましいふくらみ。そこから伸びる巨大な主翼のシャープさ。これらの要素が彫刻家の手になるかのように完璧なバランスで収まっています。貨物輸送機への転用を考えて設計されたと言われる2階建てのコクピットにしても、とてもやむなくそうなったとは思えない見事な曲面で構成されています。

特に私は、747の離陸を、真横よりも少し後方から見るのが好きです。空に向かって巨大な頭部を徐々に持ち上げ、それを追うように4つのエンジンが上を向きます。その後方には、大地に横たわる空気塊を抱えて大きく展開されるフラップ群、それとは逆に地面をこすらないようにピンとはね上げられた尾翼。離陸のための力を溜め込んだような緊張感をたたえながら少しばかり走った後、ゆらりと地面を離れます。そして、上昇と共に、ゆっくりと車輪を引き込み、フラップを閉じて、徐々に細身になって行く。

747は、エンジンを支えるパイロンの有機的なラインを始め、ディティールにも777にはない繊細さが込められています。777の開発ストーリーを取材中、私はエンジニア達に、ぶしつけな質問をしてしまいました。「777のスタイルには747ほどの美意識が感じられないのはなぜか」と。技術者達は口を揃えて、777も747も合理的な設計の結果である事に変わりはないと主張しますが、747の形についてしつこく食い下がると最後には、「偉大なサッターが決めた事だ」という言葉が何度も帰ってきました。

747の開発ストーリーには設計リーダー、ジョー・サッターの人間臭いエピソードがいろいろありますが、ボディから放たれる神々しいほどの生命感は、偉大なサッターとベテランぞろいだったという設計チームが込めた美意識なのでしょう。

航空機には、他の工業製品と同様に、いやもしかするとそれ以上に、設計者の思想と美意識が強く形に現れると私は考えています。もちろん異論もあるでしょう。航空機は、しばしば「機能的に洗練させるだけで結果的に美しいもの」として「機能美」の代表例のように語られて来ました。しかし、その結果を見ると、同じような構成の旅客機でも美醜の差が歴然とあります。私は777の取材を通じて、また、その後に航空機メーカーと仕事をする機会も得て、航空機設計はデザインそのものであると確信しました。

文献を見る限り、747の設計には、内装を除いてデザインの専門家が関わっていたと言う話は出てきません。しかしそれでも、いやだからこそ、この機能と美意識の奇跡的な適合を成し遂げた「ジャンボ」を、20世紀デザイン史上の傑作であると認めざるを得ないのです。サッターもまた、アレック・イシゴニスなどと同じように、工学設計と意匠設計が同居する巨匠であったと考えるべきなのでしょう。

以下はジョー・サッターの言葉から

「747には独特の威厳がある。乗客にしろ、パイロットにしろ、そこを気に入っているわけだが、それこそが人類に貢献している点で、その貢献は無視できないほど大きい。」(日経PB社刊「747ジャンボを作った男』前書きより引用)

クラシックジャンボの引退では多くの人が惜別の情を表明しました。新シリーズ747-8には、新しい理論と製造技術の成果であるしなやかな曲面翼が与えられています。燃費、安全性ともに大幅な改良が施されるでしょう。しかし、「一貫した美意識」が失われてしまったように感じるのは私だけでしょうか。

図版は1968年に747一号機を導入したパンナムの発表資料(航空大辞典より転載)

科学的思考と (o_o)

Daily Science,Works — yam @ 4月 23, 2010 3:31 am

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科学的思考というと、正確で事実に即した考え方という印象を多くの人が受けると思います。でもそれは科学的態度の本質ではないと私は考えています。むしろ科学的思考の根幹は、事実をありのままには見ないことにあるのではないでしょうか。

(o_o)のような絵文字を多くの人が顔だと認識しますが、考えてみるとこんな顔の人は世の中には一人もいません。本物の目はただの丸ではないし、口も一本の線ではない。いろいろなところに毛が生えていたり、凹凸が会ったり。私たちの脳は、そうした顔のディティールを省略して、顔の典型をシンプルな形で憶えているようです。実は科学的思考もこの絵文字と同じように、世界を単純化して理解する方法の延長線上にあります。

例えば、力学の基本に、慣性の法則というのがあります。「力が加わらなければ物体はどこまでもまっすぐに進み続ける」というものです。しかし見回してみると、そんな物体は私たちの身の回りには見当たりません。物は支えがなければ落ちるし、動きはいずれ止まります。地上にはいろいろな力が働いていて「どこまでもまっすぐ」なんてシンプルな運動はおこらない、それが私たちが経験できる事実です。

それでもニュートンは、この「どこまでもまっすぐ」を、物体の複雑なふるまいの基本のひとつと考えました。そういう物体を想定することによって、摩擦や空気抵抗や、変形などの複雑な現象をその上に積み上げて行くことができる、そう考えたのです。言うなれば、眼という複雑な器官から、まつげや瞳孔やまぶたなど諸々の複雑さを取り除いた o o がこの法則なのです。

もちろん絵文字と違って、科学者は、その単純な法則が本当に事実のエッセンスになっているかどうかを、実験や観測で確かめようとします。そのときに「厳密さ」という科学者の態度が登場するのですが、厳密に検証された法則といえども、人が考えたある種の表現である事には変わりがありません。

科学の法則は単なる事実ではないからこそ美しいのです。ニュートンの描いた力学の体系がどんなに本物の顔っぽく見えても、やはり事実の似顔絵であった事は、アインシュタインがもっとスケールの大きな似顔絵を描いて、思い出させてくれました。

私は、自分が直感的に生み出す形が、科学が描く世界の似顔絵にフィットする事を願っています。デザイナーが描く形の妥当性を厳密な態度で検証することはできませんが、絵文字程度には、らしくありたいものです。

参考:寺田寅彦「漫画と科学」

まだら模様の数学原理

Daily Science — yam @ 4月 2, 2010 12:01 am

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チューリング・パターンという生物の体の模様の古典的な数学シミュレーションがあります。

まあ素人なりの理解で乱暴に説明すると、お互いに反応をおさえたり強くしたりする影響力を持つ二つの化学反応が同時に広がって行くときに、その広がりに周期的なムラができるというものです。波紋の重ね合わせやモアレにちょっと似た現象ですが、「お互いに影響し合う」ってところがみそで、その影響の度合いをうまく調整すると、ヒョウ柄やシマウマ柄、熱帯魚の模様などの様々なパターンが現れます。

「反応拡散波」っていうSFっぽい名前がついているこの現象についての理論はコンピュータサイエンスの父と呼ばれる英国の数学者、アラン・チューリングが1952年に発表しました。この人は20代の頃、まだコンピュータが存在しない1930年代に、何でも計算できる万能装置が存在しうる事を数学的に証明して、コンピュータの理論的基礎を築いた人です。戦時中、ナチスの暗号を解いて連合軍を勝利に導いた事でも有名なので、その天才ぶりは半端じゃないです。

しかし、彼が42歳で亡くなる少し前に発表されたチューリング・パターンについては、未完成な研究に終わってしまったこともあって、それほど知られないままになっていました。生き物っぽいパターンは作れるものの、実際にそういうことが起こっているとは、最近まで生物学者も信じていなかったようです。

ところが、半世紀近くを経た1995年に近藤滋さん(現名古屋大学教授)が、熱帯魚の体表パターンがチューリングの提唱した原理で形成されていくことを実験で確認して、状況が一変します。現在では、この理論を体表の模様だけでなく、生物の体を作る基本原理だと考えている生物学者も少なくないようです。例えば生物の体に良く現れる繰り返しのパターン、体節や脊椎などのリズムも、こうした化学反応の波がきっかけになって生まれるのではないかと。

これは、生物のデザインにおいては皮膚の模様も骨格構造も同じ原理で作られているということを示唆します。構造設計と表面処理を別々に考えてしまいがちなデザイナーから見ると、いつもながら自然界の統一的な創造原理ってすごいですね。もっとも、その理論を晩年にことのついでみたいに発表してしまうチューリングもすごいけど。

生物のパターンを装飾としてプロダクトに刻み付けるのではなく、美しいパターンが生まれるような製造プロセス自体を考案する。そうありたいものです。

画像はwikipediaより。

深澤さんの台形

Daily Science — yam @ 3月 29, 2010 11:24 am

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スティーブ・ジョブスの台形嫌い“については、たくさんの反響をいただきました。製造コストのために、垂直に作りたくても少しだけ台形にせざるを得ない状況は、多くのメーカーの技術者やデザイナーが日頃経験している事だと思います。

深澤直人さんが2006年にneonを発表したときに「垂直に立てて置くことができる」ことや「積み木のように複数個を自由に積み重ねることもできる」ことがさまざまなメディアを通じて強調されていました。

もうおわかりと思いますが、これも完璧なゼロドラフト(抜き勾配なし)を象徴したエピソードです。当時、「携帯電話を積み上げられることに何の意味があるの?。neonを複数持つ人なんていないし」と首を傾げる友人に、これは実用性を訴えているのではなく、スタイルへのこだわりを伝えているんだと思うよと説明した覚えがあります。一見ただの直方体に見える携帯電話の多くは、実際にやってみるとちゃんとは積めない。ふたつが完璧な平面で接するができて、どの向きにでも積み上げられることは、それを目的としない工業製品としては希有なクオリティなのです。

製造技術に精通した深澤さんの、ゼロドラフトへのこだわりはスティーブジョブス以上かも知れません。プラスマイナスゼロにおいても見事な垂直平面を見せてくれます。

そう考えると、彼がデザインしたTrapezoid(台形)という名前の腕時計は、やむをえずそうなったんじゃなくて、台形に作りたかったんだぞということを念押しするネーミングなのかも知れません…なわけないか。今度聞いてみよ。

ビヨン&しっとり

Daily Science,Works — yam @ 3月 21, 2010 11:49 pm

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Daily Scienceというカテゴリーを設置しました。本日のお題は、手応えの成分。

道具の動きや手応えなどを表すのに私たちは様々な言葉を使います。びゅん、するする、ぎゅっ、ぐにゃり…。こうした動的な感触を表す表現は繊細で多様ですが、これを計画的にデザインするためには、もう少し整理してこれを理解する必要があります。そのためには工学的な機械力学の手法がとても参考になります。

技術者は機械にある力が加わったときの手応え(応答特性)や振動を、主にふたつの成分の組み合わせで解析します。それは、バネ成分とダンパー成分。

バネ成分はなんとなくイメージしやすいでしょう。日常的な表現を使えば、「ビヨン」とした手応え。私たちの身の回りにある固体は多かれ少なかれバネの性質を持っています。金属もプラスチックも木も紙も、力を加えるとその力に応じてたわみ、はなすと元に戻ります。各部品のバネ成分が合わさって、機械はそれぞれに個性的な「しなり」を持つようになります。しなりは典型的なバネ成分です。

ダンパーという言葉は、日常生活ではなじみがありませんが、あえて感覚的に表現すると「しっとり」でしょうか。水飴や蜂蜜は、ゆっくりならばいくらでも変形するけれども、素早くかき混ぜようとすると強く抵抗します。ダンパーはこの速度に比例して抵抗が大きくなるという液体の性質(粘性抵抗)を利用した装置です。玄関ドアにもこれが使われ、開閉のときのちょっとしっとりした手応えを作っています。

手応えをデザインするときには、この「ビヨン」と「しっとり」をうまく組み合わせることが重要です。

例えばぬいぐるみやクッションの柔らかさ。以前はバネ成分が比較的強いスポンジがよく使われ、ぼよんとした感触のものが多かったのですが、最近は低反発型、つまりバネ成分が弱くてダンパー成分が強いものがよく使われるようになりました。もちろんクッションの中に機械的なダンパーは入っていませんが、しっとりしたダンパーの役割をする素材がいろいろ開発されて、大流行となりました。

工業製品の操作系では、この二つが機能に応じて調整されます。ガスコンロの着火ノブや、ドアノブなどの素早い応答の必要な装置ではバネ成分が強く、オーディオの音量調整やカメラレンズなどの、精密な操作が必要な装置ではダンパー成分が強く設計されます。

車の揺れ、レバーの手応え、スイッチの感触、web上のオブジェクトの動きなどのいろいろな手応えを、この二つの成分の組み合わせで語れるようになれば、あなたも手応えのデザイナーの仲間入りです。

写真は私がデザインした、OXO社Good Gripsシリーズのキッチンツール。しっとり成分の強い新世代ゴム、サントプレンが使われています。

水のかたちにひそむ数学

Daily Science — yam @ 2月 27, 2010 5:11 pm

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水道の蛇口からつーっと細く水を落とすと、元の方が太くて先に行くほど細くなって行きます。先日、ふと思いました。これは、水が落ちて行くにつれて重力に引っ張られて、だんだん速くなって行くからじゃないかと。

同じ幅の水では、流れが速いほどたくさんの水が流れます。逆に一定の水が流れている場合には、流れが速くなるとその分、細く流れることになります。人の集団が、ゆっくり道を歩いているときは横に広がってるのに、前の方が走り始めると列が細長くのびちゃうのと似たようなものです。

蛇口から落ちた水も同じでしょう。少し丁寧に言うと<水の速度>×<流れの断面積>=<流量>、流量が一定なら、自由落下で速度が上がるのに反比例して、断面積が減って行くことになります。しかし、この原理で本当にあのきれいに細くなって行く形が生まれるのでしょうか。しばし数学っぽく考えてみました。

ややこしいので細かい事は省略しますが、落下距離は速度の2乗に比例、速度と断面積は反比例、断面積は水の直径の2乗に比例、というような関係をつないで行きます。その結果、水の直径は、蛇口からの距離の-1/4乗で表されると推定しました。

この方法は「次数推定」と言って、そうすることで正確な数値を求めることはできませんが、二つの数字が描く曲線がどんな形になるかだけは想像できます。自然の中の神秘的な形が、どういう仕組みで生まれているのかを考えるには有効な方法です。

とはいえ、-1/4乗とか言っても全然イメージわきませんよね。その関係を、MacのおまけソフトGrapherで3次元に描いてみたのが上のグラフです。一応なんかそれっぽいものができました。蛇口の先に細くのびる繊細な水の形は、「落下速度に反比例して断面積が小さくなる」という単純な原理から生まれる。という事で良いようです。

私たちがきれいだなーと思う形には、しばしばシンプルな原理が潜んでいます。その形を明快に記述してくれる思考プロセスが数学。無意識の感覚を意識化するためには、数学はとても便利な道具になります。

なお、実際の水道では、途中で水のかたちが崩れてしまうのですが、そのあたりも含めてこの現象を説明した文献をご存じの方、情報をくださるとうれしいです。

らせんとふし

Bones,Daily Science,Works — yam @ 2月 14, 2010 12:44 pm

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生物らしい形の典型は、螺旋と節(ふし)。先日の対談での倉谷さんの言葉です。このふたつは、いずれも生物の発生成長の過程で生まれる形です。

つるや巻貝ばかりでなく、植物の実や葉のかたちや骨のカーブなどにも螺旋曲線が現れる事はよく知られています。生物の細胞は、大きくなるほどたくさんの細胞を生み出すことができるという、一種の複利計算で増えていきます。ある一点を起点に雪だるま式にふくれあがった形が対数螺旋と言われるもので、これが多くの生物の形の基調になっているようです。

一方、節は、発生過程を見ると古い細胞を一定間隔で刻むように新しい細胞が現れる事で生まれるそうです。生物はある程度成長すると自らの体を刻んで、複雑な構造を獲得します。私たちの背骨は最もわかりやすい例ですが、例えば手も、骨が先に行くほど小さくなって、枝分かれして、ものをつかんだり、握ったりできる繊細な構造を形成しています。単調な繰り返しではなく、先に行くほど繊細になるというのも、生物の節の特徴ですね。

螺旋が単調な成長の典型であるのに対し、節は複雑化の典型です。倉谷さんが生き物とそうでないものを見分ける鍵として提示しているのは、生命の製造プロセスの痕跡なのです。

工業製品のボディは、一般的には最終的な形で製造され、それ以降は成長しないものなので、そこには螺旋や節が生まれる必然性はありません。デザイナーが形だけを螺旋にすることはもちろんできますが、研究者の目で見れば構造がそうなっていないのは明らかです。チェーンなどは、同じものがたくさんつながっていて一見、節があるように見えますが、複雑化をともなうものではないので、これもちょっとちがう。

もっとも、近頃はプロダクトも少しは成長するようになりました。ソフトウェアの世界では、リリースされた後の増殖やカスタマイズは当たり前になっています。いずれプロダクトも「成長と複雑化」を獲得して、倉谷さんにも見分けのつかない形になっていくのかもしれませんね。

写真は2005年に開催した展覧会「MOVE」の一風景です。槇文彦さん設計の青山スパイラルビル、あの場所に立つCyclopsが見たいというイメージが先にあって企画した展覧会でした。ビルの名を象徴する「螺旋」階段の中央に「節」を持つロボットが立っています。この光景を思い出して、倉谷さんの話との符合にうれしくなりました。

空気が乾く

Daily Science — yam @ 2月 4, 2010 1:23 am

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坂井直樹さんのブログで見事な水滴の写真が紹介されていたのでそのまま拝借。

子供の頃、「湿度70%」が不思議でした。「空気中に含まれる水分の量」と聞いて、空気全体の七割が水なのだと思ったのです。すると本当の空気は3割しかない!。そんなに水が空中にあったら溺れちゃうかも。中学生になって、空気が水蒸気を抱え込める量には限界(飽和水蒸気量といいます)があって、その限界に対して、70%なのだということを知りました。だから湿度100%でも溺れる事はないと。

さて、暖房を入れたりストーブを焚いたりすると「空気が乾いて、喉が痛くなる」と感じる人はたくさんいるでしょう。ヒーターでタオルを乾かすように、熱が水分をどこかへ飛ばして空気そのものを乾かすイメージがありますが、考えてみると妙です。タオルの場合は水が空気中に逃げていく、でも空気を乾かすといっても、水の行き場がないし。

ではなぜ乾くのか。実は。気温が上がると空気の飽和水蒸気量は大きくなります。つまり、ストーブによって暖められた空気は、抱えている水の量は変わらないのですが、水を抱えられる器が大きくなる。余裕ができた空気はあたりの水分を吸い上げ、当然、私たちの体の水分も奪います。タオルなども乾きやすくなるので、「空気が乾いた」と感じるのです。

逆もあります。水をいっぱい抱えた空気の温度が下がると、今度は器が小さくなって、やがて水を持っていられなくなります。その結果、空気から放り出された水が「露」です。冷やされた空気は、水を持ちきれなくなって、ガラスの上や、葉っぱの上に水を置いていく。

温度によって水を抱え込める器の大きさが変わる。中学で習ったような気がしたのですが、先日妻とスタッフに話したら感心されてしまいました。そして昨日はSFCの学生達にも…。

結局また、理科の授業みたいになってしまいました。

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