ジェームズダイソンアワードのお知らせ

Technology and Design — yam @ 7月 15, 2011 9:03 pm

今年の夏は、ダイソンの羽根のない扇風機がたいへん良く売れているそうですが、そのダイソン社の創業者である、ジェームズ・ダイソンの名を冠した国際アイデアコンテスト(デザインコンペ)をご存じでしょうか。その名も「James Dyson Award 」。実は今年から私がこのコンペの審査をお手伝いすることになりました。

このコンテストの第1の特徴は、テーマが毎年同じで「問題を解決するデザイン」であること。デザイナーでもあり発明家、起業家でもあるジェームズダイソン氏は、美的センスと技術センスの両方をもつ人材を、デザイン・エンジニアと呼びます。まさにこのコンテストは未来のデザイン・エンジニアのためのデザインコンペ。「ちょっとかわいいかも」とか「こんなのあってもいいでしょ」というようなアイデアではなく、「この問題を解決しました」という硬派なアイデアを求めています。

もう一つの特徴は応募資格。「現在または過去4年以内に、大学、大学院、ならびにそれに準じる教育機関において、最短でも1学期以上の期間にわたって、工学またはデザインを専攻していた者」。つまり学生、ないしは卒業後4年以内の人のためのコンペなのです。そして賞金1万ポンド(約130万円)は最優秀者に授与されるだけでなく、その人が所属している(いた)大学にも(!)同額が寄附されます。問題を解決する人物が育ってほしい、育ててほしいというダイソン氏の願いが込められているのです。

最後に、このコンペでは、新たに考案された未発表作品を提出する事は要求されていません。つまり、学生や卒業生の皆さんは大学の課題で作った物や、卒業制作の作品でも、オリジナリティさえあれば応募することができます。締め切りは8月2日と迫っていますが、既に完成した作品なら十分に間に合うと思います。

日本は今、未曾有の災害と技術神話の崩壊に見舞われています。しかし、そんな時だからこそ、日本の若者が本物の「問題を解決するデザイン」を提示するチャンスだとも言えます。若きデザイナー、エンジニアの力強い作品を期待しています。

既に4月からエントリーを受け付けていて、その作品は随時ウェブで公開されています。写真は昨年度の 国際最優秀賞「LONGREACH」- 救命用浮き輪発射装置です。

エントリーページ:
http://www.jamesdysonaward.org/Default.aspx

Openers紹介ページ:
http://openers.jp/interior_exterior/news/dyson_110425.html

スーパー竹とんぼ

Daily Science,Exhibition — yam @ 6月 9, 2011 10:58 am

その日の私は、美術館資料室で出会った数百のとんぼの、あまりの美しさに圧倒されていました。作者が愛飲していたという、ニッカピュアモルトの瓶に数本ずつ刺さっているそれは、ひとつ一つが形の違う手作りの「竹とんぼ」。

小型機のプロペラを思わせる翼は、中心に近い部分のねじれが大きくなっています。速度が大きい先端にいくほどにねじれを小さくするのは、航空機のプロペラの常道であり、それだけでもこの竹とんぼがエアロダイナミクスをはっきり意識したものであることが分かります。先端には、慣性モーメントを大きくするための重りとして金属のプレートが張られていました。こうすることで、勢いを失わず、滞空時間を長くすることができるのでしょう。記された数字はどうやらそれぞれの部品の重量のようです。

製作者は工業デザイナーの大先輩、秋岡芳夫さん(1920-1997)。彼は晩年に「スーパー竹とんぼ」と自ら命名した竹とんぼを数千機、製作しました。彼が創作したこの「スーパー竹とんぼ」は、いまでは競技用竹とんぼとして広く親しまれています。

目黒区美術館では、この秋に秋岡芳夫さんの大きな展覧会を企画しているそうです。この竹とんぼばかりでなく、若い頃にデザインしたというラジオやバイク、学研の「科学」の付録教材、2万点におよぶという道具のコレクションとその写真などの、膨大な遺品を見せてもらいました。

最も印象的だったのは、彼が二人の友人と始めた日本で最初の工業デザイン事務所のアトリエの写真でした。モノを作る喜びにあふれた空間で秋岡氏が、仲間達と本当に楽しそうに写真を撮り合った様子が伝わって来ます。この資料室に突然に呼ばれた私は、展示アドバイスを求められたのも忘れてただひとつ一つを眺め、いつの間にか涙ぐんでいました。最後まで自らの手で作り続けた秋岡さんは、こんな歌を残しているそうです。

我ら竹とんぼ奇(貴)族。

ぼくは竹とんぼ作って楽しんでいる。まさかこんなに続くとは思わなかった。

こうすればこうなる。この技術はここで使えばよい。

これで作ればこんな形になる等々わかるまでが楽しいのだ。

わかってしまった後、それを作ることは、ある意味で苦痛になる。

なぜならば、それ以降は創造ではなく、おおげさに言えば工業製品を作るのと変わらない。

作りながら考え、考えながらつくる、この楽しみは他のものには変え難い。

竹とんぼをいまだに作り続けているのは、まだ行きつく先が見えないからだと思う。

世界は円柱でできている

Bones,Daily Science,Sketches — yam @ 5月 23, 2011 10:40 am

ポール・セザンヌは友人への手紙の中で、「自然を円柱、球、円錐として扱え」と書いたそうです。その意味については諸説あるようですが、私が工業製品のデザインスケッチを描くときにも、この3つの立体が起点になる事は確かです。工業製品の場合、モーターやヒンジやギヤなどの動く所はほとんど中心軸を持つ回転体で、大小さまざまな円柱や円錐が折り重なって主な構造体を作っています。四角い立体のコーナーの丸みも、立体として捉えればたいてい1/4円柱になります。

人体の場合も、体の各部を円柱、球、円錐に置き換えて構成して行くと描きやすくなります。実際、漫画の入門書などにもそんなことが書いてある。しかしこれだと、デッサンの基本の話でしかありませんね。セザンヌのこの言葉は、美術の教科書には、キュビズムの夜明けとして引用されているようですし、上の絵などを見るとこの時代としては新しい形の見方だったのかもしれません。でも、実はセザンヌも、単に友人にデッサンのコツを教えていただけだったりして。

これに関連して、科学ジャーナリストのこばやしゆたかさん(@adelie)さんのつぶやきで、あることを思い出しました。「象の時間ネズミの時間」で有名な本川達夫さんは、全ての生物の体は「円柱形」であると主張しています(歌まで作ってる!)。発生学者の倉谷滋さんも以前お会いしたときに、「節のある円筒が生物の基本構造だ」と話してくれました。福岡伸一さんも著書の中で、「人間は考える管」であると。

確かに生き物の体は、「管」が基本になっています。ミミズのような非常に原始的な動物は口から食物を入れて後ろから排泄する単なる管になっていて、進化とともにいろいろ複雑にはなったものの、多くの動物の基本構造はみな同じです。手足などの骨も全て大まかには中心軸の周りに対象な円筒または管になっていますし、樹木などの植物は、まさに枝分かれする円柱そのものです。

もしかすると、自然を見ることに優れたセザンヌは、動植物の普遍的構造である円筒を直感的に感じ取っていたのかもしれません。セザンヌの直感と生物の基本形が、なんかぴたっとつながってとてもうれしくなりました。芸術にも造詣の深い本川先生の事だから、どっかでセザンヌくらい引用してそうですが。

上の絵はセザンヌの「カード遊びをする男達」。下のスケッチの右側の生き物はベルベットワームです。(ベルベットワームは有爪動物という体の部品がほとんど管でできている原始的な動物。動画を一応リンクしておきますが、気の弱い人は見ない方が良いです。)

井上雄彦氏による親鸞

Exhibition — yam @ 4月 18, 2011 7:16 pm

井上雄彦さんが「親鸞」の屏風絵を描いたと聞いて、いてもたってもられず京都に行って来ました。

平日の朝一番は人も少なく、ゆっくりと見られました。七百年の歴史を持つ東本願寺の大空間に、百年前の日本画の大家竹内栖鳳の絵と並んで、井上さんの親鸞が違和感なく存在していました。この空間体験そのものに、まずぞくぞくします。

井上さんの屏風は6枚綴りのものが2枚でセット(六曲一双と言うそうです)になっており、右側には、衆生を率いて泥の川を渡る親鸞が描かれています。歩いている老若男女それぞれに、膨大なキャラクターを物語として描いて来た漫画家ならではの存在感がありました。ひとり一人の生活、生い立ちが伝わってくる、まさに「キャラの立った」モブシーンです。

これに対して左側には、静かに花鳥と戯れる親鸞さんが描かれていました。白い余白をたっぷりと取って、一気呵成に描かれた枝、鳥,蝶は、宮本武蔵の絵を思わずにはいられない。中央にふわりと座る親鸞さんの柔らかい表情、繊細に描かれた手指の形になんとも穏やかな幸福感がただよいます。

遠くからながめると、左右の静と動のコントラストが素晴らしく、広大な宗教空間の中に一つの物語を作っています。屏風絵全体を通して「手」の表情も重要なテーマのように感じました。親鸞さんの手だけでなく、それぞれの人の手が深い表情を持っており、手の形から思いが伝わって来ます。

技法的には、井上さんがバガボンドで試みてきた水墨の手法が主体で、木の枝や鳥の翼、渦巻く泥水、衣のシワなどの表情が、墨のにじみやかすれに置き換えられて、禅画のような即興性のある仕上がりになっています。一方で人の顔や手の解剖学的な立体感は、ルネサンス以降の西洋絵画のものであり、老人の深い陰影なども写楽や北斎よりもダビンチに近いように感じました。そしてなにより、どのキャラクターにも、当代一のスポーツ漫画家らしい今にも動き出しそうな動感にあふれています。

今はまだ真っ白な和紙ですが、いずれ竹内氏の絵のように、深い赤みを帯びてくるのでしょうか。多くの人が、売れっ子漫画家が、京都の宗教本山に招かれて屏風絵を書いた事そのものに深い意味を感じるでしょう。私も歴史的な意味を考えずにはいられませんが、井上さんご自身、大きなプレッシャーの中で相当苦しまれたようです。その葛藤は「屏風日記」なるものに綴られています。別室で公開されていたメイキングビデオの中の次の言葉が心に残りました。

「夜中ただひとりでいた時、絵の好きだった少年がこうやって屏風に向かっている事がものすごくうれしくなって来て、あ、今だ、今なら描けると思った。」

その瞬間に、ずっと空白になっていた親鸞の顔に筆を入れたそうです。様々な「意義」や「意味」あるいは「おもわく」を乗り越えて、ただひとりの絵師としての喜びが原点である事を、心から祝福したいと思います。

絵は3月10日に完成したそうです。

(写真は、井上さんの漫画以外の活動をサポートしている(株)FLOWERさんのページから転載)

ゆりかごと核エネルギー

Daily Science,Technology and Design — yam @ 4月 1, 2011 11:06 pm

星空をながめながら、この輝きはほとんどが核融合なんだよなと思うと、不思議な気がします。星の力である核融合と、原発の核分裂は違う現象ではありますが、あらゆる原子が普遍的に内包している核エネルギーを利用している点では同じです。これからの原発を考えるために、少しの時間、宇宙に目をやってみたいと思います。

地球は人類のゆりかごである、しかし人は永遠にゆりかごで生きることはできない

「宇宙開発の父」ツィオルコフスキーは、ちょうど百年前の1911年に友人への手紙の中でこう書いたそうです。彼は、人類が「ゆりかご」で暮らせなくなってしまう可能性についても想像したでしょうか。

地球の最初の生命が約40億年前にあらわれたときから、太陽は安定した核融合炉として地球にエネルギーを供給し続けています。太陽からは放射線もやってきますが、地球の磁気と大気が遮ってくれるので、地上には暖かい光だけが降り注ぎます。地球にも少しばかり放射線を出す物質はありましたが、大規模な核分裂もなく、遠い核エネルギーの恵みを受けながらその脅威とは無縁の世界、それが私たちの地球というゆりかごだったのです。このゆりかごの中では様々な生物達が進化して来ましたが、ごく最近、その末裔である「人類」という生き物が、地上でも核エネルギーが手に入ることに気がつきました。

この発見の前までに人類が使って来たエネルギーは、他の生物達と同様に太陽のエネルギーでした。風や水などの自然エネルギーはもちろん、火をおこす事も太陽の恵みで集められた炭素を燃やすことに他なりません。しかし、太陽の恵みだけで生きるのに限界を感じ始めていた人類は新発見のエネルギーを、(最初は愚かにも同胞を殺すのに使ってしまいますが)やがて夢のエネルギーとして自らの生活を支えるために使うようになりました。

しかし今、多くの人が根源的な違和感を感じ始めています。テレビでは連日核物質の飛散が報道されていますが、そもそも私たちは核物質から発せられる放射線を見る事も感じることもできません。地球の生き物は、太陽からやってくる「光」に対しては上手に適応し、とても高度な感覚器「眼」を獲得しました。凶暴な生き物や環境の変化やなどの様々な脅威から身を守るためにもそれを利用しています。しかし私たちは、自ら生み出してしまった放射線に対しては何も感じないままに、生命の根幹であるDNAが傷つくのを許してしまう。これまでの進化の過程で放射線を感じ取る能力も防御も必要としなかったので、全く無防備なのです。

私たちは震災でダメージを受けた原発の廃棄にすら、恐ろしく時間がかかる事にも茫然としています。そもそも核反応は宇宙スケールのエネルギーであり、人の一生とはタイムスケールが違うのかもしれません。どうやら人類は途方もないエネルギーに手を出してしまった事に気がつき始めました。

おそらく人類が宇宙をすみかとし、自由に動き回るようになる頃には核エネルギーも使いこなしていることでしょう。「自然エネルギー」と私たちが呼んでいるような形のエネルギーは宇宙にはほとんど存在しません。宇宙では宇宙にありふれたエネルギーを使うとすれば、核エネルギーを人類が使い始めたタイミングと、人類の宇宙進出が重なったのは偶然ではないのかもしれません。ツィオルコフスキーが言うように、私たちがゆりかごから出て行く次期が来たのでしょうか。

どうやらここが正念場です。人類が核エネルギーを征してゆりかごを脱するのか、太陽の恵みを見直して、もうしばらくゆりかごで暮らすのか。放射線量や電気使用量のグラフとにらめっこしてしまう日々だからこそ、こんなスケールで考えてみることも大切だと思います。

(写真はNASAハッブル望遠鏡ギャラリーから、星の死滅によるガスの放出。NGC 6302 )

フェスト社の美しい飛行機械達

Technology and Design — yam @ 3月 26, 2011 7:50 pm

ドイツにフェストFestoという会社があります。電磁バルブや空気圧アクチュエーターなどの様々な空気圧機器、部品を作っている会社です。いずれも私たちが日常生活で直接に使うような製品ではないので、一般的にはあまり知られていません。この会社の製品は、売れ行きを伸ばすために見映えを良くするようなデザインとは無縁なのですが、機能的でシンプルでありながら質感が高く、ドイツ IFなどのデザイン賞の常連です。

そのフェスト社は、2006年頃から「生体工学学習ネットワーク Bionic Learning Network」あるいは「自然からの発想 Inspired by Nature」と名付けられたプロジェクトで、様々なロボットを研究しプロトタイプを発表しています。いずれも、生き物の機能を引用しながら、新しい技術コンセプトを提示しており、必ずしも直ちに役に立つものではないものの、技術者からもアーティストからも非常に高い評価を受けています。特に、エアジェリーエアペンギンなどと名付けられた、ヘリウムガスを充填した薄い膜構造と超軽量の制御機構からなる、一連の飛行体は圧巻です。

その最新作が先日発表されました。実際に羽ばたいて飛ぶ事ができるカモメ型の超軽量ロボットで、その名も「スマートバード」。羽ばたき飛行のロボットはこれまでにもありましたが。これほどしなやかに優雅に空を飛ぶロボットは初めて見ました。

翼長は2m近くありますが、重量はわずか450グラム,繊細なリンク機構で羽ばたく超軽量骨格の翼は、羽ばたくたびに柔らかくねじれ、効果的に空気を抱え込み送り出します。フェスト社の解説によれば、本物の鳥に近いエネルギー効率を実現したそうで、映像にはありませんが、ちゃんと離陸し着陸するようです。

フェストのような産業用に特化した部品メーカーは、どうしても一般消費者との接点が希薄になります。日本でもそうしたメーカーは人材を確保するのにも苦労することが多いようですが、これらの夢のあるプロトタイプを発表する事で、フェスト社は、多くの人々にその技術力と美意識を効果的にプレゼンテーションしています。こうした役割を果たすのも、技術と人を繋ぐデザイナーの役割でしょう。

私たちは今、テクノロジーがもたらした不幸な結果に直面しています。しかしだからこそ、美しい技術の夢をながめながら、自然界では人だけに与えられた「未来を創る力」をどこへ向けるのかを考えて行きたいと思います。

放射能のビジュアルイメージ

Daily Science,Technology and Design — yam @ 3月 13, 2011 8:58 pm

まだ、地震で被害を受けた原発を押さえ込むための努力が続いていますが、報道を見ながら家族と話してみると、「放射能」という言葉が表す物の実体をイメージすることの難しさを改めて思いました。専門家でもなんでもないのですが、家族に説明するつもりで放射能についての私なりのビジュアルイメージを描いてみます。

「放射能」という不思議な言葉は、ラジオ・アクティビティの訳語として作られました。ラジオは「光の放射」を表す言葉、アクティビティは「能力」です。かつて、何やら目に見えない強い光を発する物質を発見した科学者達は、その物質たちの働きの総称として、ラジオ・アクティビティ(放射能力)と名付けました。その後、科学者達はこの「放射能力」のある物質を精製して一カ所に集めると、それが互いに影響し合ってものすごく強い光を出すことを突き止めました。これを利用した原子力発電では、その強力な見えない光でお湯を沸かして蒸気の力で発電しています。

さて、このように「放射能」という言葉は、もともとは機能を表す言葉なのですが、広く二つの意味で使われてます。

一つは「目に見えない強い光」(放射線)そのものの意味。この場合「放射能を浴びる」などと表現されます。この光の特徴は、目には見えず、透過力が強く、かつ破壊力があることです。かすかなものは自然界にも普通に存在していて、ほとんど無害なのですが、強力な源の近くで大量に浴びる事はとても危険です。日光浴でもときには火ぶくれになりますが、体の表面の火傷なのですぐに直ります。ところがこの目に見えない光は体の内部まで一様に焼くので、痛みはなくても人体は致命的な損傷を受け、かつ非常に回復が難しいのです。

原子力発電ではこの光が外に漏れないよう、分厚い金属で厳重にカバーしています。もし原子炉が壊れて中から直接光が出て来たら、服や家屋もほとんど遮る役には立たないので、ともかく離れるしかありません。10センチの距離なら火傷する電気ストーブでも、10m離れれば何の効果もなくなるように、距離を取ることがとても効果的です。

一方「放射能に汚染された」とか「雨と一緒に降ってくる」などと表現するときの放射能という言葉は「放射能力のある物質」の意味で使われています。目に見えない光を発する「光る粉」をイメージしてみましょう。ひとつ一つはわずかな光なので、体についても短時間なら害はありませんが、大量に吸い込むと体の中のあちこちがその光によって損傷を受けます。この物質にはいろいろな種類があるのですが、中には何年、何十年も光り続けるものもあります。そういうものが体の中に留まると、傍らにある細胞は長期間その光を浴びることになり、癌などの疾患を引き起こします(期間は短くても強く光るものもあるので寿命が短いから安全とは言えませんが)。

この「見えない光る粉」が広範囲にばらまかれてしまったときの対策の基本は、ともかく体に入れないようにすることです。なるべく浴びないこと、浴びたらすぐに洗い流すこと。毒ではないので解毒剤のようなものはありません。良く似た物質で、放射能力のないものを大量にとると、体にたまるのを防ぐ効果はあります。

以上のように「放射能」という言葉は、二つの実体が混合されたまま使用されています。「放射能漏れ」と聞いたときに、光そのものが放射されているのか、光る粉がただよい出たのかを見極めることは大切で、それによって全く対処が違います。

いずれにしても目に見えないし、何も感じられない現象なのでとても不安になりますが、だからこそ、きちんとしたイメージを持つことが、私たちの身の守るための第一歩だと思います。

(この文章は一応技術職にある私の理解を、分かりやすく伝えようとしたものです。私は原子力の専門家ではありません。よりきちんと伝えるための専門家の方の助言をお待ちしています。)

南の島で出会った北欧のライン

Technology and Design — yam @ 3月 1, 2011 12:49 am

先日、種子島に取材旅行に行った時、35人乗りの小さな飛行機に乗りました。このあまり見かけない形の飛行機はサーブ 340Bと言います。そうあのスエーデンの自動車、サーブと同じブランドの飛行機なのです。実はサーブはもとは日本の富士重などと同じように航空機、軍需品のメーカーであり、そこから自動車部門が独立してサーブ・オートモビルとなりました。

種子島まで35分の短いフライトでしたが、搭乗が折りたたみの小さなタラップだったり、各シートの前には気分が悪くなったときのための袋が3つずつ(そんなに要るのか?)用意されているなど、小型機らしい体験がたっぷり。現在の大型機と違って貨物室が客席の後方にあり、「重量のある貨物が搭載されたので、バランスを保つために前6列のお客様からご搭乗下さい。」などという珍しいアナウンスも聞こえます。

私は飛行中、一番後ろの席からエンジンのカーブをながめながら、サーブ92や900などのかつての名車たちを思い出していました。デザイナー達の交流があったかどうかはわかりませんが、ラインの癖がそっくりなのです。以前このブログで、第二次大戦当時の戦闘機のデザインにはそれぞれのお国柄が現れると描きましたが、この航空機も車もまさに「サーブ」のラインでできていました。

それは一言で言うと、カジュアルで人なつこく、優しさのあるどこか女性的なラインです(全然一言じゃないし、笑)。こういうニュアンスは結局比喩で語るしかないのでうまく伝わるかどうかはわかりませんが、写真でもボーイングなどの力強さとは違う優しさ、悪く言えばひ弱さを感じてもらえるでしょうか。

実は自動車会社にいた頃、サーブのラインがとても好きだったのです。日本の南の方の島で、なつかしい北欧の文化に出会った素敵なひとときでした。

手を描いてみましょう

Bones,Sketches — yam @ 2月 18, 2011 12:22 am

先日twitterでこんなことをつぶやきました。

手をうまく描くコツは、丸い板に五本の指が生えている物として描くのではなく、手首から5方向に分かれている長い指があって、最初の関節までは肉が間を埋めているものとして描く事だ。(Feb 10, 1:00am

これに対し、「ほんとだ。生まれて初めて手が描けた気がする」というコメント付きで、米国在住の木田泰夫( @kidayasuo )さんが描いて、公開してくれたのが上のスケッチです。右の絵は「丸い板に五本の指」として描かれていますが、左は「手首から5方向に分かれている長い指の間を埋める」ように描かれています。左の絵の方がずっと手らしく見えますね。

木田さんは、「ことえり」をはじめとするアップルの日本語環境の開発責任者であリ、アップルを代表する技術者の一人です。おそらく絵を描くことに慣れてはいらっしゃらないと思うのですが、即興で、実に飲み込みの良いスケッチを描いてくれました。以前にも私は「形を描こうとしてはいけない。構造を描くことによって自然に形が生まれる。」などと言って来ましたが、このスケッチは骨のつながりを理解して描くことの大切さを伝えてくれる好例だと思います。

私たちは、しばしば「見たままに描く」ことにこだわります。しかし私たちの眼がカメラと一番違うのは、入って来た図像をそのまま焼き付けるのではなく、直ちに対象の意味を理解し、それに解釈を加えて記録することです。

視覚情報を直ちに解釈することは私たちが世界を理解する上ではとても大切なことなのですが、その解釈が絵を描くことを邪魔する場合もあります。手を見て丸い板に五本の棒が生えているものと理解することは、実生活上は実用的かもしれませんが、指と指の相互関係を見失わせます。そこで、見えない部分の解釈を付け加えることによって、指と指、指と手首の関係がはっきり意識させると、手らしい手を描くことができるのです。

このつぶやきに対し、恐竜などの古生物の図鑑のイラストなどをたくさん描いていらっしゃるイラストレーターの小田隆( @studiocorvo )さんから、「見かけ上、手の甲側からと手のひら側からでは、指の長さが違っている」ことも重要だという助言をいただきました。下記のブログで、模範ともなる素晴らしい手の絵を見ることができます。

鴉工房: 手を描く1

ツイッターがきっかけになって、海外の人もプロの人も一緒に手の絵を描いてみる。そんなつながりをうれしく思った夜でした。

(イラストは木田さんのflickerページからの転載です)

アップルまみれ

Mac & iPhone,Works — yam @ 2月 5, 2011 1:55 am

私がMacintosh に出会ったのは1986年、日本語化されたばかりのMac plusでした。もちろんそのGUIにも感動しましたが、ハードウェアの仕上がりも、それまで私が接したパソコンとはずいぶんレベルが違いました。

あらゆる方向から、ちゃんとデザインされており、家電やオーディオ機器では当たり前だった醜い背面がそのマシンにはありませんでした。冷却スリットやフロッピーのスロットなども一環した思想でデザインされていました。キーボードやマウスをつなぐコネクタもシステム化されており、ともかく全体を「こった造り」が大好きな人間が作った事は、歴然だったのです。

その美意識に惚れ込んで24年、何十台というMacを使って来ました。おそらくは私の人生で最も多くの時間をともに過ごしたブランドでしょう。妻も子守りをしながら、SE30に向かっていましたし、娘も言葉を話す前からマウスを触っていました。

フリーのデザイナーとして駆け出しの頃の私は、13インチのモニターを抱えてプレゼンに出かけていました。世の中は、パソコン上のスライドショーなど見た事もない人たちばかりだったので、それだけでプレゼンの効果は抜群でした。日本で唯一、イラストレータのデータを電子写植機で出力してくれる店が渋谷にあって、そこで作った大判印画紙の四面図を持参してプレゼンした自動車会社では、図面を見るために別の部署から人が集まって来たりしました。その日本初の出力ショップの店長さんは後にDTPのカリスマと言われ、多摩美の教授にもなられた猪股裕一さんです。

その後、アップル本社と仕事をする機会にも恵まれ、その美意識の根幹に触れたと思える瞬間も経験しました。ここ十年ほどは、私の周りには常時アップル製品が少なくとも7、8台はある生活が続いています。

間違いなく私の生活は、スティーブ・ジョブズによって一変し、その後ずっと御世話になりっぱなしです。彼が去ってアップル製品の魅力が陰った時期もあったけど、すぐに戻って来てくれました。ちょっと心残りなのは、直接にスティーブ・ジョブズその人と話した事がないことですね。一度だけ直に見る機会はありましたが…。

最近二つ、アップルについての素敵な記事を見ました。一つはMacテクノロジー研究所」というブログの記事。もう一つはマイクロソフトのページ(!)にあるコラム。どちらもアップルとスティーブ・ジョブズへの愛に満ちた文章です。

「Mac発表記念日にスティーブ・ジョブズの休職を憂う」

Apple’s eye No. 280 – 止め処なく躍進を続ける世界2位の企業、アップル~その強さの秘密は、本質主義の「いいデザイン」』

スティーブ・ジョブズの引退が噂さされています。彼が引退したらアップルはダメになるんじゃないかと多くの人が憂い、私もそう思わなくはありません。しかし願わくは、ジャガーやポルシェ、BMWのように、永く尊敬され、愛されるブランドになって欲しいと思います。そしていつか、若者達の前でもったいぶって言いたいのです。
「スティーブがいた頃はもっと凄かったんだ…」

(図は1997年に作ったデスクトップテーマ Drawing Board 用の壁紙です。)

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