車輪を持った生き物

Sketches,Technology and Design — yam @ 2月 10, 2012 5:45 pm

“自転車のすばらしい移動効率を考えると、車輪を持った生き物がいないのは、やっぱり不思議。”

昨年末に私がこんなことをつぶやいたのがきっかけで、生物が車輪を持っていないのは何故かということについてツイッター上で議論が盛り上がりました。

血管がある生き物には360度以上回転する部位を持つことは構造上難しいとか、車輪は直径の1/4以上の段差は登ることができないので、でこぼこの世界に住む小さな生物には意味がないとか、車輪を持てなかった理由について様々な意見をいただきました。一方で、どういう構造であれば既存の生物たちの進化の可能性の中で車輪が持てるかを考えてみるのは面白そうだということになり、いろいろなアイデアも登場しました。その議論については pseudotaro さんがtogetterにまとめてくれたので是非ご覧ください。

生物は進化の過程で車輪をなぜ持たなかったか 山中俊治さんを中心とした会話 – Togetter

そんな中で yamadaggg さんから、「身体をまるめてボールのようにころがる生き物を車輪として寄生させる別の生き物」というアイデアをいただきました。確かに自分の体を丸めて転がることによって敵から逃げる生き物は意外にたくさんいます(ダンゴムシ以外にも、イモムシ、クモ、カエルやトカゲなど)。

そのアイデアを基にしてデザインしてみたのが、上の絵の「車輪を持つハチ」です。議論の中では、車輪を得たとしてもどうやって駆動するかが問題になっていましたので、羽根で推進することにしてみました。図鑑っぽくテキストを作ってみます。

クルマコロガシバチとオオスナダンゴムシの共生:
クルマコロガシバチは、乾燥した土地に住んでいるアシナガバチの一種。春先になると絵のような姿で、乾いた地面の上を高速移動する様が見られる。車輪のように見えるものは、丸まったオオスナダンゴムシ(ワラジムシ目)。日本にいるダンゴムシと同じように外敵の攻撃を受けると硬い甲羅を外にして丸くなる性質を持つが、この季節になると自らを車輪として提供することによって、クルマコロガシバチとともに繁殖地を目指して砂漠を北上する。その移動距離は時として数百キロにも及ぶ。
クルマコロガシバチの六本の足のうち、中足が大きく発達しており、丸まったオオスナダンゴムシの中心を左右から抱え込んで車軸の働きをする。それをオオスナダンゴムシの七対の柔らかい足が包み込むことによって、摩擦の少ない柔軟な軸受けを形成し、その結果、ハチの羽ばたきによる推進力だけで、乾燥した平坦な土地をころころと移動することが可能になる。
クルマコロガシバチがなぜ単純な飛行をせず、このような移動を行うのについては、まだ十分に解明されていないが、移動中のクルマコロガシバチがオオスナダンゴムシから水分を得ているという説もある。一般的に、アシナガバチの仲間は繁殖のために他の虫を捕獲する習性を持つもが多いが、この二つの虫は大移動のためだけに共生していて、目的地に到着するとそれぞれの生活圏に別れて繁殖し始める。

私たちは、遠い昔から品種改良によって、様々な生き物を自分たちの都合が良いように改良してきました。そしていよいよ遺伝子を操作し、生物そのものも改変しようとしています。善かれ悪しかれいずれ私たちは、生物を自在にデザインすることになるでしょう。そんな日に備えての、ちょっとした思考実験でした。

有人小惑星探査船 その3

SFC,Sketches,Technology and Design — yam @ 1月 4, 2012 5:26 pm

宇宙船デザインの話の第3回、これで最後です。

探査船のサイズや形は、全体の行程と密接に関わっています。最初に選定した行き先候補である3つの小惑星それぞれに、必要な燃料の量がかなり違うので一概には言えませんが、中央の居住区は直径約10m、タンクを含めた直径は小さくても約30mになりそうです。構造質量だけで数十トン、燃料を含めた出発時重量は数百トンのかなり巨大な宇宙船です。

ミッション開始にあたっては、まず、たくさんのロケットで繰り返し部品や推進剤タンクが打ち上げられ、軌道上で組み立てられます。最後に乗員も打ち上げられ、完成した居住区に乗り込み、いよいよメインエンジンが点火されて出発。フル加速で(といってもせいぜい1Gで数分、0.3Gで数十分ですが)地球軌道を脱します。

空になったタンクは、航行の各段階ごとに捨てられて行きます。タンクだけでなく、最終的にはこの宇宙船はその大部分を宇宙に放棄して帰ってくることになります。もったいないと思うかもしれませんが、再利用のために丈夫にすると重くなりますし、それを持って帰るのにも燃料がいるので、できるだけ薄く作って使い捨てていく方が合理的で現実的なのです。(スペースシャトルは、回収、再利用のできる経済的な宇宙船として華々しくデビューしましたが、結果的にはメンテナンスと打ち上げのコストがかさみ、財政上の悩みのタネになってしまいました。)

上のモックアップの写真は、行きの加減速を終了し、小惑星にたどり着いた頃の形です。すでに多くのタンクを放棄し、帰路の加減速に必要な推進剤だけを保持しています。下の図は全体行程を図式化したものです(クリックで拡大)。

約3ヶ月後、ようやくこの宇宙船は目標とする小惑星から数百メートルの距離まで近づきます。直接に小惑星に着陸することはせず、ひとり乗りの探査ポッドが射出されて小惑星の一角に着陸することになるでしょう。小惑星の重力は非常に小さいので、着陸というより「しがみつく」が正しいかもしれません。

いくつかのミッション(サンプルの採取や観測装置の接地、計測、実験など)が実施され、それが終了すると帰路につきます。さらに約3ヶ月をかけて再び地球軌道上に戻ってきます。

地球の軌道上に戻ってくるころには推進剤タンクはすべて放棄され、中央の多面体の居住区とその先端についた再突入カプセル(先端の円錐状の部分)だけになっています。3人の乗組員が再突入カプセルに移乗し、最終的には居住区も放棄され、カプセルだけが大気圏に突入します。パラシュートで海上に着陸したカプセルを地上班が回収してミッション終了になります。偉業を達成した3人は熱狂的な出迎えを受けることになるでしょう。

以上、長い初夢でした。そう言えばこの宇宙船、まだ名前を付けていません。公募したりすると、なんとなく国家プロジェクトっぽくなるかな。

*写真:清水行雄

有人小惑星探査船 その2

Sketches,Technology and Design — yam @ 1月 3, 2012 7:26 pm

引き続いて有人小惑星探査船のデザインのお話。

この宇宙船のデザインに特徴的なのは、中央の居住区を放射状に取り囲んだ推進剤タンクです。話題となった無人探査機ハヤブサは、とても少ない燃料(推進剤)で時間をかけて小惑星イトカワまで往復しました(7年もかかったのは予定外ですが)。しかし有人機では、過酷な宇宙空間に人が滞在する時間をできるだけ短くする必要があります。そのために膨大な小惑星を精査して、最短で行ける目標を選んだのですが、それでもかなり加速してスピードを上げて航行し、ブレーキ(とはいえ、加減速とも1G以下ですが)をかけて小惑星にランデブーすることになります。宇宙では加速にも減速にも膨大な推進剤を使うので、出発時の船体は推進剤タンクの固まりのようになります。

これをデザインするにあたって、最初は学生たちと一緒に、いわゆる「宇宙船」っぽいスケッチを描いていたのですが、何度も野田さんからダメ出しされました。「そもそも船体を前後に長くしたり、全体にまとまり感を与えたりする必然性ないから」と。

言われてみればスピード感のような美意識は、無意識に流体中の移動体が持つ合理性を引きずっていています。加速度も大きなものではないので、過度に剛性や強度を持たせて重くすることは推進剤のロスにつながります。広大な宇宙で組み立てるので、コンパクトにすることにもさほど意味はありません。スケッチを描きながら、私たちが持つ「カッコイイ」という感覚が、空気や水と重力の影響をいかに強く受けているかを思い知らされました。

議論の末、中央の推進軸上に居住区を置き、それを取り囲むように推進剤のタンクを放射状に配置することにしました。宇宙空間での組み立てやすさ、切り離しやすさに配慮すると同時に、居住空間を囲むことでいくばくかの宇宙線の遮蔽効果にも期待しています。4機のスラスターの反対側(先頭?)には円錐状の再突入カプセルがあり、本体の影にならないよう少し前方の離れた所に、太陽電池パネルが展開されています。

この不思議な船体が、重力の影響をあまり受けずに水の中を漂うように生きるクラゲの幼生や藻のような印象なのは、偶然ではないような気がします。実際、宇宙機の航行は「飛ぶ」というよりも「漂う」に近いのです。

下は居住区のスケッチです。3人の宇宙飛行士は6ヶ月間、ほとんどの時間を無重量状態で過ごします。ついつい上下のない自由な内装をデザインしたくなりますが、どうやらそれは宇宙飛行士に多大な心理負担をかけることがわかってきました。初期の宇宙船では上下のない内装も少なくなかったそうですが、現在のISSなどでは、はっきりと上下がわかるようにデザインされています。

居室は全部で五つ。中央に食堂があり、周囲にラボ、寝室、ジム、与圧室が配置されています。至る所に「手すり」があり、ディスプレイなどが、その手すりに細いアームで柔らかく固定されています。こんなに突起があるとぶつかってケガをするのではないかと思うかもしれません。しかし、無重量状態では基本的に「転ぶ」ことがないので、思い切って壁を蹴らない限り、どこかに強く頭をぶつけることもないそうです。

その3に続きます。

有人小惑星探査船 その1

Technology and Design — yam @ 1:06 am

2012年の最初のエントリーは初夢っぽく、慶應SFCで研究してきた有人小惑星探査船の話をします。長い夢物語になるので3回に分けてアップしたいと思います。

きっかけはアーティストの八谷さんから私宛のツイッターでした。宇宙機のデザインに興味を持っている航空宇宙関係の技術者を紹介したいと(「航空宇宙のデザイン始めます」参照)。その人は野田篤司さん。過去にいくつも実現した衛星プロジェクトを指揮してきた高名な技術者です。その方が「カッコイイ宇宙機」を作りたいという夢をずっと持っているというのです。実際にお会いしてすっかり意気投合してしまいました。それから1年半以上、「美しい宇宙船」を作ることの意味と可能性について議論を重ねています。

そのツイッターのやり取りを見て声をかけてくれた雑誌の編集者さんがいました。講談社コミックモーニングの佐渡島庸平さん。佐渡島さんが担当しているマンガ「宇宙兄弟」のムック本「We are 宇宙兄弟」に宇宙機のデザインプロセスを連載してみないかとメールをいただきました。ばたばたと連載が決まり、宇宙と宇宙機について野田さんのレクチャーを受けながら、デザインスタディとして有人小惑星探査ロケットをデザインして、その経過を連載してみることにしました。それがちょうど1年前です。写真はその最新号にも掲載したモックアップです。

宇宙開発の専門家である野田さんと構想を議論し始めてまず驚いたのは、通常の乗り物とは全く計画の手順が違うことでした。いわゆる商品として乗用車やバイクを計画するときには、目標となる運動性能や人や荷物の積載量、使い方などを検討する所から始めます。

有人ロケットもそこが決まらなければ、デザインできないのは同じですが、最初に野田さんが始めたことは「行く先」を決めることでした。数百ある小惑星の軌道と地球との位置関係から、それぞれの小惑星に最も短い時間で行けるタイミングを、2020年から40年間に渡ってシラミ潰しに計算して行くのです。目標はできるだけ少ない燃料で、できるだけ短い時間で(できれば6ヶ月以内で)帰って来れるルートを探すこと。

考えてみれば、1回しか使わないロケットを設計する以上、当たり前のことだったのですが、これまで私がデザインしてきた乗り物の行き先や出発日は買った人が決めるものだったので、あまりに計画手順が違って感動しました。

そんな私の感動をよそに、野田さんがその膨大な計算結果の中から淡々と選んでくれたターゲット候補は3つ。小惑星2006 QQ56(2050年3月9日に地球を出発し、9月3日に帰還)、小惑星1999 AO10(2025年9月1日に地球を出発し、2026年2月27日に帰還)、小惑星2001 QJ142(2047年4月24日に地球を出発し、10月20日に帰還)。それぞれに推進剤の量や、宇宙飛行士の宇宙滞在時間が計算され、それを元にタンクの大きさやエンジンの大きさが決まって行きます。

2050年(!)という遠い未来の日付を見て、自分が今、どんなに途方もないものをデザインしようとしているかを思い知らされました。

その2に続きます。

*写真:清水行雄

気がついたら「豪華すぎるトークショー」になっていた件

Exhibition,SFC,Technology and Design — yam @ 11月 21, 2011 2:21 am

11月23日にこんなトークショーがあります。

出演者は、あいうえお順で

不思議な金属生物のような楽器を使って、世界のあちこちで前衛的なパフォーマンスを行い、大ヒットしたオタマトーンなどの不思議な製品を作り続ける明和電機社長の土佐信道さん

ユニクロやAUなどのクールなウェブをデザインし、インフォバー2の操作画面をデザインし、「デザインあ」などの番組も手がけるインターフェースデザイナーの中村勇吾さん

JAXAで様々な衛星の開発に携わる一方で、フィクションの技術考証によりコアなSFファンの間でも「野田司令」の愛称で知られる宇宙機エンジニアの野田篤司さん

「日蝕」により23歳という若さで芥川賞を受賞し、その後も「葬送」「決壊」「ドーン」など幅広い小説を書き続け、コミックモーニングでも「空白を満たしなさい」を連載中の小説家、平野啓一郎さん

とても忙しい方々なので、出演を依頼したときには、きっとお一人ぐらいは予定が合わないだろうと覚悟していたのですが、皆さん参加してくれることになって、1時間半ではとても皆さんの魅力を引き出せないような豪華すぎるトークショーになりました。

トークショーのタイトルは「未知の領域へ広がるデザイン」。実は4方ともデザインについては深く語り合ったことのある人たちで、「デザイン」という言葉をとても大切にしてくれています。

一方、どの方も普通の意味の「デザイナー」ではありません。

土佐さんは、過去にもサバオやノックマン、ジホッチ何ど様々な製品を開発していますが、そのデザインは決してグッドデザインには収まらず、デザインとアートの垣根をガラガラ壊してくれる人。

肩書きにデザイナーとあるのは中村さんだけですが、ご存知のように中村さんは、プログラムベースのとても深い所で人と情報の出会いを設計し、従来の「デザイン」の枠には全く収まらない人です。

野田さんは、宇宙機エンジニアでありながら、スペースシャトルを形ばかりの失敗作としてばっさりと切り捨てる一方、宇宙機は美しくなくてはならないと主張し、とても魅力的な絵も描く多才な人。

平野さんは、小説「かたちだけの愛」ではプロダクトデザイナーの生態を見事に書き表し、ご自身の小説の構造や読みやすさについても「小説のデザイン」という言葉で明確に語ってくれます。

そんな4人と、「デザインの枠に収まらないデザイン」について語り合ってみたいと思います。短い時間の中ですが、皆さん個性的かつ知性あふれる方々なので、興味深いお話になることまちがいなし。お時間のある方は是非お立ち寄りください。

上の絵は4人のツイッターアイコンを、アプリ風にアレンジしてみたものです。

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慶応義塾大学SFC  Open Research Forum 2011 プレミアム・セッション

「未知の領域へ広がるデザイン」

場所:東京ミッドタウン 4F カンファレンスルーム9
日時:11月23日(水・祝)12:00~13:30
入場無料 事前登録不要

ミッドタウンホールでは研究室の研究成果を展示しています。そちらも合わせてご覧ください。

http://orf.sfc.keio.ac.jp/

「失われたものの補完」を超えて

SFC,Technology and Design,Works — yam @ 11月 14, 2011 12:02 am

写真は、開発中の女性用義足のモックアップです。現時点ではあくまでもイメージモデルであり、まだこれで歩くことはできませんが、これをトリガーとして開発を進めようとしています。開発に協力してくれている女性は、板バネの義足を使って走るアスリート。きれいな人なので、足を作るのも緊張します。

義足は紀元前の昔から作られてきました。ただの棒のような物も多く使われて来ましたが、一方で、常に本物に似せるべく芸術品に近い物も製作されました。義足は失われた下肢を補完するものであり、その目的には、歩行機能の回復だけでなく外観の回復も含まれているのです。

作り方が近代化したのは第一次世界大戦直後。大量の傷病兵に対応しなければならなったヨーロッパで、それまではひとつ一つ手作りだった義足製作がシステム化されます。パーツはモジュール化され、金属パイプと量産の接続パーツを組み合わせて、低コストで大量に作られるようになりました。その結果、機能的には向上したものの、外観は本物からは遠い物になってしまいました。

そこで現在では、その金属骨格に肌色のスポンジとシリコンのカバーをつけて外観を似せた、コスメチック義足が作られています。中には、指ひとつ一つまで再現された精巧な物もありますが、それでもよく見れば質感の差は隠せません。残念ながら多くの切断者たちが、現状のコスメチック義足に満足していないのは事実です。日本には義足使用者は8千人ほどいるらしいのですが、ほとんどの人はコスメチック義足を使わず、金属の骨格をそのまま服の下に隠しています。いつかは本物そっくりで、機能的にも十分な物が作れる時代が来るのかもしれませんが、それはまだ先のようです。

今、私たちは、違う道を模索しています。見てもわかる通り、本物の足にはまったく似ていません。人工素材で作られる機能的な人体としての、人工的な美しさを目指しました。一方、左右のバランスをとるためにシルエットとしては人体を引用しています。人の体にはリズミカルな「反り」があるので、カーブしたパイプを使っています。ふくらはぎの部分の白い着脱式アタッチメントは、パンツをはいたときに足の形を自然に見せるためのパッドのようなもので、これも運動機能には全く寄与しないのですが、足の形をきれいに見せるための重要なパーツです。

立つことしかできないモックアップなのですが、それでも彼女はこれを喜んでくれ、何時間も写真撮影につきあってくれました。いつかは、こんな義足で町を歩く人も普通に見かけるようになり、友人たちが「その足いいね。」って自然に言えるようになることを夢見ています。

義足デザイナーの小説を書いた作家の平野啓一郎さんと対談では、エイミー・ムランという有名な両足義足のモデルさんが話題になりました。彼女が「私には12本の足がある。身長だって変えられる。」と笑いながら話す映像は、とても印象的でした。

そう、そろそろ「失われたものの補完」という考え方から離れて、もっと自由に表現しても良いはずです。

*平野さんとの対談第5回
「義足は道具か、それとも身体か──喪失が新しい創造の場所になる」 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110901/282540/

*写真の義足は、11月22日、23日の二日間、六本木のミッドタウンで開催される慶応義塾大学SFCの研究発表会、OPEN RESEARCH FORUM 2011で展示されます。
SFC Open Research Forum 2011 – 学問ノシンカ
http://orf.sfc.keio.ac.jp/

パリで見つけた毛細管現象

Daily Science,Sketches — yam @ 10月 31, 2011 7:03 pm

海外の都市を歩くときの楽しみのひとつは、文具屋さんを訪れることです。文房具は単価が安すぎるアイテムや、日本で使う習慣のない道具は輸入されないので、その国独特の文字や紙の文化に触れることができます。

先日のパリ滞在中も、何度も文房具屋に足を運びました。やはりペンの国ですね。本当にいろいろな形のペンがあり、そのひとつ一つが個性的で美しい。日本ではGペン、かぶらペンぐらいの種類しかなく、メーカーが違っても形はほとんど同じですが、パリのペンは、それぞれの形に個性があり、ひとつ一つの書き味が違うのです。その品揃えの豊富さは、日本の毛筆店そっくり。欧米人が日本の書道用の筆を見れば、同じようにそのバリエーションに驚くのでしょう。

ペンも毛筆も、墨液に先端を浸けて一度含ませてから書くのは同じです。どちらも液体が隙間に入り込もうとする性質、毛細管現象を使って基の方に墨液を保持し、巧みに先端に送り出します。

共通する課題は、液体をできるだけ多く含んで、少しずつ安定して送りだすこと。書道用の筆が油絵の筆などと違って、基が太く先端が細くまとまっているのは、たっぷり含んでそれを細く送り出し、長く字を書き続けるための工夫です。ペンのインキを送り出す溝の一番上や中間には、ひとつまたは複数の穴があいていますが、これがインクタンクの役割を果たします。素材や構造は全く違うのですが、西洋のペンも日本の筆も、毛細管現象との戦いがデザインに現れ、先端の太さや墨液の量の違いによって、様々なバリエーションが生まれるのです。

そんなパリの文具店で、ちょっと変わった形のペン先を見つけました(上のスケッチ)。ペンの上にもう一枚金属の板が乗っていて、ペンとその板の間にインクを抱え込みます。どうやらカリグラフィー用のペンらしく、いろいろな幅のものがありました。試しにスケッチに使ってみると、一回インクを付けるだけで結構持つので、なかなか快適。

帰国してから、早速プロジェクトのデザイン・スケッチに使ってみました。いつもボールペンを使っていたので、久々のつけペンは緊張感があります(インク瓶を倒したりペンを落としたりすると、すべてが水泡に帰す…昔良くやりました)。紙はかなりラフな水彩紙を使い、にじみを楽しんでいます。インクは店長さんおすすめの公文書用の黒、「三百年持ちます」だそうです。真っ黒ではなく柔らかいチャコール系の黒です。

原画を使ったプレゼンテーションは、なかなか好評でした。いかにも「原画」なので、ていねいに扱われるのがなんかうれしい感じ。

カリグラフィペンはボールペンに比べるといささか小節(コブシ)が効きすぎるので、どうしても絵のタッチが少し演歌調になりますが、まあこれはこれで良いかなと。準備とお手入れも面倒なのですが、しばらく使ってみようと思います。

ぐっばい。スティーブ・ジョブズ

Mac & iPhone — yam @ 10月 7, 2011 7:20 am

会いたいと思っていた人に、結局、会えないまま終わってしまった。悲しいのかどうかさえわからないが、確かな喪失感がある。

スタンフォードの卒業式での伝説的なスピーチは、iPodでいつも聞いていた。

Connecting dotsという美しい響きの言葉から始まる「過去から見れば、ばらばらにしか見えないことも、未来から振り返って見れば見事につながっている」という一節を聞いては、行き当たりばったりだった自分の若い頃を思い、それをつなげてみた。

「私は偉大なタイポグラフィーが偉大たる所以を学んだ…」というくだりに込められた繊細なものへの愛が好きだった。

「毎日今日が最後の日だと思って生きれば、ある日それは本当になる」には笑った。

「君たちの時間は限られてる。人生を無駄にしては行けない…」以下の言葉にはいつも奮い立たされた。

こんなに何度も何度も聞いたスピーチは他にない。部分的に暗唱できるほどだ。このスピーチの冒頭にTruth be told(ホントのことを言うとね)で始まる一文がある。私がNYで講演を行ったとき、この言葉を冒頭で使ってみたことがある。それを聞いたネイティブの友人は、その言い回しはあまりスピーチにはふさわしくないよと教えてくれた。スティーブのフランクさをまねるのは難しい。

伝聞に過ぎないが、スティーブは、私がアップルのためにデザインしたDrawing Boardを見て「使い物になるのはこれだけだ」と言ったそうだ。アップルの木田さんは「スティーブが他人が作ったものに与える言葉としては、最大限の褒め言葉ですよ」と教えてくれた。

私はここ数年、アップルのデザインが、スティーブの美意識がいかにすごい物であるかを、はばかる事なく話して来た。言うまでもなくそれは、1人のデザイナーとしては敗北だと思う。彼の製品を賞賛するたびに、打ちのめされる自分がいる。賞賛しながら私は、一度もスティーブに面会を求める行動を起こさなかった。もしかすると私は、スティーブが絶賛してくれるようなものを作らない限り、彼に会うことができないと、勝手に思い込んでいたのかもしれない。我ながら屈折している。

スティーブはそのスピーチの中で、こんなことも言う。

Death is very likely the single best invention of Life. It is Life’s change agent. It clears out the old to make way for the new.(死は、生命がなした最も重要な発明に違いない。死は変化の担い手であり、新しいものに道を与えるために、古いものを消し去るのだ。)

その言葉の通りにスティーブは、「古きもの」として去って行ってしまった。少なくとも私は、私が作った物をもう一度、スティーブに見て欲しいという思いからは、離れなければならない。私に、「新しきもの」として道を造る力が、まだある事を祈りながら。

パリの蚤の市にて

Technology and Design — yam @ 10月 4, 2011 1:15 pm

パリのモンパルナスの駅からさらに南へ地下鉄で10分ほどのところ、ヴァンヴでは、毎週末に蚤の市(骨董系がらくた市)が開かれます。L時に曲がった道路に1キロぐらいの範囲で、古い食器や家具や生活小物がずらりと並びます。

ギークな私は、ついつい古い道具や科学の実験道具などに目がいってしまいます。市全体を見渡すと、日本語や中国語の説明がついた、いかにも観光客向けの食器やアクセサリーの店も少なくないのですが、工具を主に売っているような店には素朴な店が多くて楽しめます。

一般的に工具は、とても合理的にデザインされているはずです。その原則は、世界中どこに行っても変わらないようですが、その合理的デザインの結果は、なぜか国によって全然違ってきます。もちろん素材や加工方法の違いがあって、工具の役割自体が違う場合も多いのですが、はさみやのこぎりのように、全く同じ機能、素材であっても民族独特の美意識の違いがくっきり現れます。そのことは、工具の持つ美しさが、必ずしも合理性からだけ生まれるのではないことを示しているように思います。

伝統的な工具は、誰か個人が完成された形をデザインしたものではなく、長い時間をかけて作り継がれる中で、ひとつの形に収束してきました。繰り返し模倣され、改良が重ねられていくうちに、個人のもくろみを超えた美意識が、研ぎすまされ、結晶化されています。その意味で、私に取って海外に行って工具を見ることは、その文化の底流に流れる美の根源に触れることなのです。

蚤の市には、使い方の見当さえつかないものもたくさんあって、店の人に説明を求めると、あまり流暢とは言えない英語で一生懸命説明してくれます。百年以上前のものもあるという(店の親父の説明を信じるならばですが)工具たちが乗っているテーブルの上には、土曜の朝の、のんびりとした時間が流れていました。

初めてのルーブル

Exhibition,Technology and Design — yam @ 9月 22, 2011 6:24 am

ルーブル美術館という世界で最も有名な美術館に、初めて行ってきました。何度かパリには来ているのですが、「丸3日はかかる」とか「人類の至宝」とか、そんな重たい言葉に気後れして、何となく見送ってきたのです。今回、仕事でパリにひと月滞在する機会ができたので、ふらりと行ってみました。

で、一番感動したのは、いまさらですが、写真の「サモトラケのニケ」。撮影が許可されている美術館での楽しみのひとつは、彫刻の写真を撮る事です。絵画は、自分で撮るより遥かに再現性の高い写真が出回っているので、あらためて自分で撮る意味を感じないのですが、彫刻は自分で動き回って、自分が一番快感を感じるアングルを記録する事ができます。ニケはどこから撮影しても絵になるのですが、私の萌えアングルは後ろ姿でした。

この彫像がなんでこんなにかっこいいのかと言えば、それはもう、首やら手やらをもぎ取ってくれた偶然のすばらしさにつきます。人の体に翼をつけた像は世の中にたくさんありますし、完全なままなら、かえってこれに勝る彫刻はあるのかもしれません。でもこの彫像は、前傾した胴体と、風になびいてまとわりつく布と、翼だけが残りました。その結果生まれた、あり得ないほどの緊張感とスピード感。

なんて今更、たかがデザイナーが力説するのも滑稽な気もしますが、もう少し続けます。

実は私にとって、移動体の後ろ姿はいつも萌えポイントです。飛行機でも乗用車でも、斜め後ろから見たときが、最も移動体らしくなるように思えるのです。ニケは、頭と腕を失う事で、人に羽根を付加したキメラではなくなり、移動体としての純粋さを得たのではないでしょうか。空を飛ぶのに腕は要りませんからね。

詩人マリネッティは、未来派宣言で「咆哮する自動車はサモトラケのニケよりも美しい」とか書いたらしいですが、よく言ったものだと思いました。自動車もデザインした事がある身としては、あんなかっこいいものは、ちょっとやそっとじゃ超えられないと思うぞ、と突っ込みたくなります。

ついでに言うと「モナリザ」も良かったです。今まで見たダ・ヴィンチの作品では、どちらかと言えば素描の方が好きだったのであまり期待していなかったのですが、なんか光ってました。あんなに胸と手元を照らす光が強烈な絵だったなんて…。

やっぱり絵画も彫刻も実物じゃないとわからないものです。でも若いときにこの体験をしておきたかったとは、特に思いませんでした。むしろ色々経験を積んでから、名だたる傑作に会うのも悪くないと。だから若いアーティストやデザイナーにルーブル詣でを勧める事は、これからもしない事にします。有名なものばかり先に見てしまったら、後がつまらないじゃないですか。

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