「肋骨のはたらきは?」と聞かれると、多くの人は「内蔵を守る」と答えるでしょう。しかし、そうすると大切な臓器の大半が、やわらかいおなかにあるのも不思議です。もちろん心臓を保護する役割も果たしているのですが、実はもっと重要な機能があります。それは呼吸です。
肋骨は後方で背骨につながり、前方では胸骨につながっており、全体としては前後2本の縦棒の入った提灯のような構造になっています。左上の図は人の胸郭の簡単なモデルです。連なるリングが肋骨、右側の長い縦棒が背骨、左の短い棒が胸骨。内部に風船のような「肺」をおいてみました。
一見がっちりした構造に見えますが、実はそれぞれリングと前後の縦棒は、一種の関節になっていて、角度を変えられるように、つながっています。
ここで胸骨にあたる短い棒を下に動かしてみましょう。すると連なったリングは一斉に左下がりに傾きます(左下図)。その結果、胸骨は背骨に近付いて風船をつぶします。ずらりと並んだ柱が一斉に倒れて、建物が一方向に倒壊するのと同じですね。胸骨を上に引っ張ってリングを引き起こすと、最初の状態に戻って肺が空気を吸い込みます。
実際にはこの動きは小さなものなので、胸がつぶれるように見えることはありませんが、仰向けになったまま、大きく息を吸い込むと胸が、あごの方に向かって移動しながら、せり上がってくるのを確認することができます。一見頑丈な建築物のように見える肋骨は、呼吸のたびに倒れたり起き上がったりを繰り返しているのです。人の体って不思議ですね。
少し構造は違いますが、最近テレビにも登場するようになった土佐さんのWahha Go Goも、ふいごの肺を持っています。それがせり上がって空気を吸い込むのは、なかなか見事なアナロジーです。
カンブリア紀の生物の想像図第4弾「ウィワクシア」です。
これも約5億年前の海の中で起きた、「進化の大爆発」と呼ばれる動物の劇的進化の中で生まれた生き物の一つ。やはり他の「バージェス動物(カナディアンロッキー山中のバージェス頁岩中に発見された化石動物群)」と同じように、子孫を残さず絶滅し、現在ではほとんど近隣の生物種がいない特殊なデザインの動物ということになります。
体長は数センチ。海底であまり動かず、鋭いとげと硬いうろこで身を守っていたとされている地味な生物です。
これまでにも化石動物の想像図を何枚か紹介してきましたが、この絵はその中でも特にお気に入りです。理由は構図です。この生物が好きだからでも、あるいは、うまく復元できた気がするからでもなく、単純に構図。
プロダクトのデザインスケッチでは、真上からの構図だけで立体を表現する事はあまりありません。3面図のように、他の方向からのビューで補足していかない限り、画面が平板になりがちで立体を伝えにくいからです。
しかし、その難しさに挑戦してうまく立体感が出せた時は、とても達成感があります。空想画ですので、立体配置を想定して、光が左上からあたった時の陰のパターンと諧調を脳内でレイ・トレーシングします。複雑な立体の影の形や照り返しの効果とかを考えるのは結構楽しいものです。絵の左側のとげの列が、ぐっと手前に伸びているように見えたら一応ねらいは成功かな。
はやぶさの帰還のニュースを聞きながら、やはり航空宇宙技術にはもっとデザインが必要だと思いました。
多くの人たちがあの機械装置を擬人化して感動を表現しています。私はその現象に、デザインへの渇望のようなものを感じました。もしこのマシンが航空機のような、洗練された機能美を持っていたら、ゆっくりと光を受けながら回転するドキュメンタリーだけで印象的な映像となるでしょう。ロマンを語るのに、表情を付けたり身震いをさせてみたりしたくなるのは何かが足りないのではないでしょうか。今回の帰還を通じて、宇宙開発の原点が技術ロマンである事を私たちは再確認しました。ロマンには、それにふさわしい姿があるように思います。
例えば、城郭や戦艦は機能を最優先して設計されるものですが、一方で、いつの時代も威厳や戦意高揚のためのデザインにも一定のコストがかけられてきました。宇宙開発が人々に希望を与える事業である以上、その希望を視覚化するためのコストは、科学振興の意味でも必要なものだと私は考えます。新幹線のパンタグラフだろうと、ジェット機のフラップだろうと、人の意思が入る余地が全くないほど、厳密に最適形状が決定されるわけではありません。美しくない設計は、多くの場合、美しくする気がないか、美しくする余裕がないかのいずれかであると思います。
機能の最適化に全力で取り組んでいる技術者からは、「以前デザイナーを入れたら箸にも棒にもかからない提案されて、時間の無駄だった」という経験談も良く聞きます。そういう技術者の方に、デザインとは本来そのような物ではないというお話をするところから私の仕事が始まります。機能的な形状を純化しつつ、ほんの少し手を加えるだけでこの上なく美しくなる場所を発見し、それを起点にしたいと思います。デザインの余地なんかないと関係者が思い込んでいる世界ほど、デザインがやれる事がたくさん見つかる物なのです。
絵についての私のつぶやきを少しまとめておきます。発端は5月17日の暦本さんのつぶやきに対する答えでした。長文の連作つぶやきとなり、多くの方にRetweetいただきました。
—
絵を描くというのは、見る技術です。東大工学部でスケッチを教えるようになってもう20年近くになりますが、最初に教える事は目の前に見えている物の空間構造を捉え直すことから始めます。 Rt @ 絵がうまい人は同じものを見ていてもちがうものが見えているような気がする。12:19 AM May 17th webから
面白い事に、言語論理的思考の優秀な人間ほどしばしば、「かたち」を見ていない事に気がつきました。「なるほど、わかった」と判断したとたんに、そのものを見なくなるのです。これは人の認知の構造と関わると思われます。12:22 AM May 17th webから
絵を描く訓練は、わかっている物をあえて捉え直す作業です。従ってよく知っている物ほど正確に書くのは難しい。皆さんは、自分の顔を良く見ているはずですが、自分の眉毛の中点が瞳の真上にあるかどうかを憶えているでしょうか。自画像を何度も描いたことがある人間はそれを知っています。12:31 AM May 17th webから
美術学校の学生達は、たいていそういう物の見方を以前から知っているので、あまり劇的なことは起こりませんが、東大やSFCで教えていると、あるとき劇的に認識が変わって、何かつきものが落ちたように描けるようになる学生がいます。12:37 AM May 17th webから
劇的に変わる学生は一部なので、それが隠れた才能だったのかもしれず、本当に授業の効果のほどは、検証できていません。ただ、この授業を初めたときに、学生達の卒論の図が格段にわかりやすくなったと教授達に喜ばれました。12:48 AM May 17th webから
文章においても論文と詩が違うように、絵においても正確にかたちを描く事と、表現者として感動させる事は全く違います。美術教育においてそのあたりの区別が明確でないことは、とても残念なことです。12:58 AM May 17th webから
—後にこれに関連して—
絵を描く事は、ものの輪郭を描く事ではない。重要なのは向こう側にあって見えていないものや、中心軸のような仮想の線を描く事。そうやって立体や空間の構造を把握したときに迷いなく輪郭を決定することができる。1:01 PM May 17th webから
平野敬子さんは、小学生に上がる前、輪郭を描きなさいという先生に「世界には輪郭なんてない」と言って抵抗したそうです。 RT @: 「東京の海を灰色に描ける子供は天才かもしれない」中学の美術の先生が教えてくれたことば。12:41 PM May 22nd TweetDeckから
「輪郭は物のかたちを理解するときに生じた抽象作用の結果であって、世界に実在する線ではない」という認識には、通常美術をある程度深く学んでから到達します。彼女はそれを初めから理解していたという事ですね。12:47 PM May 22nd TweetDeckから
–
久しぶりに自分の手を描いてみました。手の構造が好きです。
流行の3D映画を見て、小学生の頃にステレオ画像にはまったのを思い出しました。とりあえず1枚作ってみましたので裸眼立体視(平行法)のできる人は試してみて下さい。
ひとつの立体を両目で見たとき、左右の眼の位置が違う分、少しだけアングルの違いが生じます。私たちの脳はこれを照合して立体や空間の奥行きを感じています。これを利用したステレオ写真は、写真が生まれて20年ほどしか経っていない1840年代にはすでに盛んに撮られていたようです。方法は簡単で、左右に並べたカメラで同時に撮る、それだけです。
最近3D映画や3Dテレビも、原理は同じで、特殊な眼鏡をかけることによって、アングルのずれた画像が左右それぞれの眼だけに見えるように工夫されています。
これについて田川欣哉君が、twitterの中で「映像面に対して人が右に左に歩き回っても,奥行きの軸が視点に対して変わるわけではない」ことを上げ、そのことが目や脳の負担につながっているのではないかと指摘しています。
確かに、立体が絵と決定的に違うところは、私たちの移動に対して刻々と姿を変えて行く事だと言えます。上の2枚の絵をうまく左右の目で見れば奥行きを感じることができますが、所詮は絵なので、自分が左右に動いてみてもボールとリングの位置関係は変わりません。流行の3D映像も、昔ながらのステレオ映像に過ぎませんから、その点は同じです。
映画は元々、視点を与える芸術でもあります。カメラワークと呼ばれる、視点の移動、切り替え、視野の変化などによって、日常生活にはない視点で世界を見せてくれます。しかしその手法のままでステレオ立体視を付与することには、どこか無理があるのかもしれません。奥行きを感じられるようになった反面、カメラのある場所に「無理矢理連れて行かれる」感が強まってしまったように感じます。3次元の住人としては、もっと自由に動き回りたくなりますね。
むしろ二次元画面であってもRPGの世界のように、自分が移動できたり、視点を変えられたりすることのことの方が、自然な3D体験であるような気がします。その意味ではステレオ立体視のできるゲームには期待しています。
米国アリゾナ州ツーソンの近くの砂漠にそれはありました。見渡す限りの地平線に延々と並べられた数百の飛行機。現役を退いた飛行機が解体を待って置かれているこの場所を、航空関係者達は「飛行機の墓場」と呼びます。ここを訪ねたのは12年ほど前。
あたりは40度を超える暑さなのですが、乾燥しているのでそれほど不快ではありません。頭からペットボトルの水をかぶるとたちまち乾いて行きます。この乾燥した気候のおかげで金属が錆びにくいのを利用して航空機が保管されます。必ずしも古いものばかりではなく、就航待ちの新しいものもあるようでした。
砂漠の中の道路を走っていると、案内役の航空会社の人が地面を指差して何かを叫びます。見ると巨大な褐色の蛇が、砂漠の蛇特有の横滑りで道路を横切って行きます。「あいつは毒はない』と運転手は笑って言いますが、私達にとっては異世界感たっぷり。
広大な駐機場の外れには、いつから置いてあるのだろうという航空機がたくさんありました。翼にはエンジンの代わりに重しがぶら下げられています。これがないと重量バランスがとれず、翼が折れてしまうのだそうです。航空機はとても軽く設計された結果、大きさの割に金属量が少なく、採算が取れないのでなかなかリサイクルが進まないとか。
狭い国土の日本にはあり得ない光景でした。上はこの時の取材をもとに「航空機を作る」という本の為に描いたイラスト。私たちが訪ねたのは民間の保管場でしたが、Google Mapで探すと下のような写真にも出会えます。
久しぶりに娘を仕事の打ち合せに連れてゆきました。18年前に初めて彼女をつれて会議に出た時には、「打ち合せに赤ん坊抱いてくる人初めて見た。」って、まだ若手建築家だった妹島和代さんに笑われたのを憶えています。普通に考えればあり得ない公私混同なのでしょうね。
その娘も随分大きくなったので、ミーティングではSFCの学生の一人に見えたのではないでしょうか。アトリエに戻ってから娘がこんなことを言いました。
「今お父さんが作ってる機械って、あの会社じゃないと作れないんじゃないかと思った。」
「なんでそう思う。」
「お父さん『こういう事はできないかな』って何度も言ってたじゃん。それがどのくらい無理なのことなのかは私にはわからないけど、相当せっぱ詰まってる状況だって言うのは私でもわかった。後3日でとか言ってるし。それなのに日南の人たちは全員で、それをやる事を前提にどうやったらやれるか考えてる感じだった。すごいいい人たちだなあって。」
18年前の打ち合わせのときはただ私にしがみついていただけの娘に、自分がいかに恵まれているかを教えられた感じです。
一昨日の試運転に成功した連続抄紙機プロトタイプ「水より生まれ、水に帰る」は、morph3やFlagellaを一緒に開発した、信頼できるパートナーである株式会社日南が製作しています。いろいろ無茶を聞いてもらいながら、展示当日まで、つきることのない完成度との戦いを続けます。
フィールドテストに立ち会いながら、二つのことをとてもうれしく思いました。
ひとつは、迷惑をかけてばかりとはいえ、うちの学生が義肢制作の現場に受け入れられ、義肢装具士の方の指導をあおぎながら一緒に作業していたこと。
もうひとつは、若い義足ランナーが、私たちのデザインした義足で何度もトラックを走ってくれて最後に、「今日は本当に楽しかった」と話してくれたこと。
どちらも、義足製作や障害者スポーツの場を、初めて見学したときに思い描いた光景でした。しかし、その時点ではデザイナーがほとんど関わっていないこの医療現場に、私たちが受け入れられる可能性については全く自信が持てませんでした。
デザインは、適切に機能すれば、いかなる場面いかなる場所においても、少なからず人を幸せな気分にする力を持っています。それは、ささやかな幸せかもしれませんが、その力は決して無力なものではありません。しかし同時に、しばしばデザインが「余裕がある人のためのもの」としか理解されていない場も経験してきました。そういうデザインの空白エリアを見つけては、首を突っ込むのは私の性なのですが。
実際に関わり始めてみると、私たちの知らないことがあまりにも多く、何ができるのかを探るところから始めざるを得ませんでした。私と学生達は義肢製作の現場、学会やリハビリセンターなどに足を運び、研究者や医療従事者を訪ねて義肢についての勉強を始めました。ヘルス・エンジェルスという下肢切断者を中心とするスポーツクラブの練習会などに何度も参加し、学生達も一緒に身体を動かしながら、何が必要とされているかを考えてきました。
人との接し方やプロジェクトの進め方には学生達もだいぶ悩んだみたいで、時には無力感も感じ、研究室で学生同士が激しく言い争う場面も少なくなくなかったようです。他のチームメンバーから「義肢チームはいつもギシギシしてる」などという、笑えない報告を何度聞かされたことか。
手探りの一年半でしたが、文字通り走り始めたことを実感できるこのごろです。
デザイナーの道具のカタログを見ると、「素早く確認」とか「時間の節約」という言葉がよく使われています。いわゆるアーティストが使う画材との、一番の違いはそこかもしれません。
例えば、プロダクトデザイナーのスケッチに多用されるマーカーですが、これも準備のいらない乾きが速い画材として開発されました。最初に普及したデザイナー用マーカーのブランドが、スピードとドライをおやじギャグ的に合わせた「Speedry」ですから。今では高校生も使うようになったコピックも、トナーを溶かさないのでコピーした線画の上に塗れて、スケッチが量産できる事が売りだった頃の名称が生き残っています。
モデル材料も同じです。モデルを作るときのデザイナーの仕事は彫刻家に似ていますが、デザイナーは決して大理石を使ったりしません。発泡スチロールや粘土などの造形が簡単な素材を多用します。スチレンボード、バルサ、ケミカルウッド、いずれも加工しやすいから使われる材料です。
今や、画材としてパソコンを使い、CADと3Dプリンターでモデルを作るようになりましたが、その売り文句も相変わらずスピーディ。
なぜそんなに急ぐのでしょう。アートは心行くまでやればいいが、ビジネスは違う。それはそうですね。産業人である以上、人件費節約や時間短縮は当然だし、意思決定の方法として、ともかくたくさんアイデアを集めるというやり方もあるでしょう。しかし、そうした企業論理とは別に、テクノロジーと関わるデザイナーの仕事は、根本的に瞬間芸であると感じます。
多くのデザイナーは、長くひとつの技術を育てる立場ではなく、むしろその成熟のタイミングを見極める立場にあります。常に進歩し続ける技術と人々の欲望の接点は一瞬。完成度の低い技術は見向きもされず、やっと役に立つようになった技術は、その瞬間から陳腐化し始めます。デザイナーはその一瞬を狙って、アイデアを定着させなければなりません。
ボールがはねる瞬間を捉えてライジングをたたくために、着地点に素早く回り込む。そんなダッシュ力が要求される職業なのかもしれません。私自信はダッシュ苦手なのですが。
上は、秋に発表したコンセプトモデルのスケッチ。ボールペンとコピックで描きました。短期間のプロジェクトでしたからほとんどボレーです。ゆっくりボールの行方を見極めたいものです。
カンブリア紀の生物のスケッチから、オパビニアです。五つの目、象の鼻のようにのびた口、開いたエビのような胴体としっぽ、もうわけがわかんないデザイン。これも過去に紹介したハルキゲニアやアノマロカリスと同じく、化石の写真から私なりに書いてみた、「古生物学者ごっこ」の一枚です。
カンブリア紀は、生物の外観デザインが急速に多様化した時代です。
5億4千万年前、突然に生き物たちの間の食う食われるの生存競争が激化しました。それまでの生き物の多くは、海の中を漂うようにのんびりと暮らしていたとか。弱肉強食の世界になったきっかけは、お互いの位置が遠くからでもわかる「目」が生まれた事だと言われています。
その後、進化の歴史から見ると非常に短期間に、固い殻、とげ、爪、牙、高速で追いかけっこをするためのひれなどの器官を、生き物たちは次々に獲得していきました。現在の生物が持つ硬い器官の原型の多くがこの時代に生まれたそうです。
同時に、私たちには見慣れない、まるで地球外の生き物のような不思議なデザインの生物もたくさん生まれました。しかしこのオパビニアを始め、その多くは長く子孫を残す事なく消えていきました。
ある技術がきっかけで市場が活性化する。市場競争がさらなる技術開発を促す。開発の初期にはいろいろなアイデアが試され、奇抜なものもたくさん生まれる。そして、その多くがすぐに市場から消えてしまう。
なんとなく身につまされながら描いたスケッチです。
(スケッチの初出は雑誌AXIS。98年、アスキー出版「フューチャー・スタイル」に再掲載。)