車を自分で運転しなければならなかった時代
かつて自分がデザインした、Infiniti Q45という車を一応今も所有しています。可哀想に、ほこりをかぶったまま駐車場にじっとしていますが、今朝ふとそれを眺めて、あらためて長い車だなと思いました。人間5人を運ぶのに5メートルもの長さ。それだけで時代を感じさせます。
Googleが自動運転の車を開発している事が話題になっています。注目は「ストリートビューカー」が収集している膨大な地図データを利用するという事。自動運転というとロボットカーレースのようにカメラやセンサーで状況を判断して走る車をイメージしますが、「世界中の道を熟知する車」という新しい方向性が見えてきました。ニュースによると「交通事故と炭素排出を減らし、人々の自由時間を増やすことが、プロジェクトの目標」だそうです。なんだか懐かしい言葉だと思いました。
1950年代から60年代に、様々な科学者や社会学者、市民運動家などから、個人所有の車の急増を危惧する声が上がりました。いわゆるマイカー論争です。「膨大な死者が出るシステムを放置するのは行政の怠慢だ。」「車を都市に導入する社会的コストはメリットを遥かに上回る。」「やがて深刻な大気汚染を生むことになる」そうした意見は、結果的にみて正しかったとも言えるのですが、結局人々の所有願望に押し流される形で、モータリゼーションが進行しました。そして、乗用車への消費意欲が薄れたと言われる今だからこそ、マイカー論争で指摘された問題の根本的な解決に、ようやく乗り出そうとしているのかもしれません。
Googleのエリック・シュミットCEOは、「自動車は自動で走行すべきだ。自動車の方がコンピュータより先に発明されたのは間違いだった」と語ったそうです。
かつてパーソナル・コンピュータにも、「自分でプログラムしないと使えない箱」の時代がありました。この箱はオフィスに大量導入され、ビジネスマン達が大挙してプログラミング講座に通う事が社会現象にもなりました。パソコンのそうした黎明期はあっという間に終わりましたが、長かった運転教習の時代も終わろうとしているのかもしれません。二十世紀は「車を自分で運転しなければならなかった時代」として記憶されることになるのでしょうか。
自分で運転しなくなっても、カー・デザインの未来を悲観する必要はないと思います。コンピュータを見れば、ユーザーが自分でプログラムしないと使えない箱の時代より、今の方が遥かに魅力的で、生活文化として花開いています。長い修練を必要とする複雑な操作系から解放されたとき、人に寄り添う移動装置としての新しいデザインが問われることになると思います。
絵は1986年、日産にいた最後の年に描いたQ45の、ファイナル・スケッチです。
自動運転の記事は、クルマ関連業界に身を置く者としては、いろいろ考えさせられます。
かつては、自動運転になったら、クルマのデザインはおしまい。かな?
と思っていましたが、今は、たまには、クルマに任せて寝ていけたらいいな。とか思っています。
北米駐在時代、オートクルーズで何日も走ると、いっそハンドルもオートにして。とマジで思いました。現実的には、飛行機のオートパイロットみたいなイメージで、近い将来実現するのでしょうね。
人間が物理的に移動する限り、それを支えるモノのデザインの未来はありますよね。
Flyingtak1さん
コメントありがとうございます。
完全自動化の前に、運転免許取得が簡易化されるかもしれませんね。
簡単に取得できる半自動免許みたいな制度ができたら、みんなそっちをとるでしょう。
しばらくは車を手動で運転できる人が、尊敬されたりして(まさにマニュアル運転。笑)
今、馬車を動かせる人は、稀ですよね。そういう時代がくるんでしょうね。
”電気自動馬”みたいな物ができれば、馬車みたいなクルマでOKなんですね。
地方での公共交通機関の疲弊が言われていますが。自動車の自動運転が可能となった瞬間から一気にモノの見方が変わるように思います。昔PRT( personal rapid transit )とか言っていたような気がします。テクノロジーが高齢の地方在住者の生活を助けることが可能になるかもしれません。
と考えるならば、街のあり方生活のしかたも、パーソナルコンピュータとインターネットの普及で大きく変わったように変化していくように思います。
自動運転の車が走れば走るほど、情報の蓄積が一気に進み。すべての車がストリートビューカーとなるととんでもなく正確な運転が可能になりますね。前の車が危険を感知するとそのすぐ後ろの車に伝わる事もできますしね。
大きな馬に跨り、表参道を闊歩したい。
インフィニティQ45は、そんな願望の形を変えて叶えてくれる
日本男児にとって、世界最高の自動車ではないでしょうか。
自動運転の時代がやってきても、そこにデザインが介在する限り
大切なことは失われないと思っています。
不易流行。