坂の上の雲

Off — yam @ 8月 29, 2010 3:08 pm

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まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑(しゅゆう)は松山。(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)

時代は百年ほど違いますが、「坂の上の雲」の世界は、「伊予の首邑」松山に生まれた私の気持ちに重なる部分があります。

主人公である秋山真之や正岡子規と同じように、若き日の私も、松山という穏やかな地方都市から活気溢れる東京をあこがれの目で遠望し、「偉くなる」事を夢見て上京しました。地方都市特有の上昇志向は、今も昔も変わらないようです。

しかしその気持ちは長くは続きません。正岡子規は、東大予備門(現・東大教養学部)に入学し、やがて文学にのめり込んで行き、東大を中退してしまいます。同じ東大に行きながら、私もまた、いつしかマンガにのめり込み、留年したあげく当初の上昇志向とは全く違う道を選びました。

幼少期に過ごした愛媛の各地は、穏やかな気候以外にこれと言って取り柄のないところでしたが、どこへ行っても生き物が溢れていました。

夏の日に田んぼのあぜ道を歩くと、ひっきりなしに数歩先の草むらから用水路に飛び込む蛙の水音がします。チャポチャポと言う音に先導されながら、トンボの群れや蚊柱をくぐり、夕方になればそれを襲うコウモリの群れを見上げ、夜には蛍の群れが作る川沿いの光の帯を歩きました。

そうした経験が、自分のデザインに影響を及ぼしているとは特に思わないのですが、しかし、デザインの起点である「観察」の喜びは、生き物達を見つめるうちに学んだものだと思います。

詩歌をたしなまない私が、正岡子規の深淵をわかるはずもないのですが、「写生」という言葉には心躍る響きを感じます。装飾を排して事物をまっすぐに見る姿勢は、古典回帰でありながら最も近代的な視点に立っており、デザインのモダニズムにも通じます。その起点には「観察」があったのではないでしょうか。

あとからつづいた石川啄木のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている。

と司馬遼太郎は子規を紹介します。見たもの聞いたものを明るくのんびりと受け止める性向は、私も受け継いでいるかもしれません。

8 Comments »

  1. はじめまして、twitterでフォローさせて頂いています。
    神社仏閣の建設で大工として働いていた時に感じたものと似通っていると感じました。田んぼ、森などの中の神社仏閣の荘厳さは、都会では感じられないもので生命の溢れる世界での様式美を思い起こしました。
    失礼ですが、変なコメントを書かせて頂きました。

    コメント by kokuryuu22 — 8月 29, 2010 @ 4:30 pm
  2. 正岡子規の写生、懐かしい言葉です。

    病床の動きが取れない中で、自分の周りの自然を繊細に感じ取る。それを写生する。
    華やかさも、強さもないが、頭の片隅に残る。そんな印象を持っていました。

    歳をとると、正岡子規も分ってくるかもしれません。

    松山、いい故郷ですね。

    コメント by 平野宏和 — 8月 29, 2010 @ 8:00 pm
  3. 平野さん

    書き込みありがとうございます。
    そう言えば、松山は電気自動車を多数タクシーとして採用しています。
    非接触自動改札機も全国に先駆けて導入していました。
    のんびりした所なのに、ときたま妙な所で先進しています。

    コメント by yam — 8月 30, 2010 @ 11:04 am
  4. はじめてコメントさせて頂きます。

    先日帰省のついでに松山に新しく出来た坂の上の雲ミュージアムに行って参りました。たまたまその時に二宮忠八展が催されており山中さんのブログを思い出して納得するものがあったので書き込ませて頂きました。

    仰る通り愛媛は瀬戸内海と四国山地に囲まれた穏やかな気候が特徴ですが、それは同時に陸路でも海路でも大きく打って出ることが難しい状況を作り、「どうせやるなら空にしよう」という思考パターンを生んでいる様な気がします。

    このブログを拝見しておりますと山中さんも空や飛行機がお好きなようですが、愛媛の人間の空が好きだったり普段は大人しいのに時に突飛な発想をする精神性にはその様な背景があるのかもしれないと勝手に納得してしまいました。

    説明不足で意味不明な文章になっていたら申し訳ないです。

    コメント by y.kubota — 8月 30, 2010 @ 9:14 pm
  5. NHKの坂の上の雲の続きが待ち遠しいですね。
    今は竜馬伝にはまっています。四国ブームなのかな?

    松山の電気タクシー乗ってみたいです。

    コメント by ながさわ — 8月 31, 2010 @ 11:51 am
  6. 山中さん

    「写生」・・・いつも真正面から挑まなくては行けないので精神が
    弱っているときは結構苦痛でした。そして世の中への観察力が
    なくなってきたときも驚くほど何もかけません。
    ただいちど始めるとそのミクロな視点がぐいぐいと穴を掘っていくように
    自分の意識の中に入り込んでいく様子は地球の反対側に抜けるくらいに
    新しく清々しい気持ちになります。

    いつでもそういった「本当の姿」をよく見る訓練は欠かさないようにしたいと思います。
    バレリーナも毎日同じポジションのレッスンを繰り返しますが
    そうやってならした肉体を酷使しブレークスルーに挑みたいです。

    コメント by Tomoko ARai(PUNTO_GRAFICA) — 9月 1, 2010 @ 10:22 am
  7. tomokoさん

    いつもコメントありがとうございます。
    「写生」というと一つの物に向かってずっと描き続けるイメージがありますね。
    その苦行のイメージは私も苦手かもしれません。
    でも俳句における写生は、本当にわずかな言葉で鮮やかに景色を表現しきります。
    たった一本の線で事物を写生することもできるのだという事を、もう一度考えたいと思います。

    コメント by yam — 9月 2, 2010 @ 9:40 am
  8. 山中さん

    コメントフォローをありがとうございます。とても嬉しいです。
    書き忘れてしまったコメントの追記です。
    いつか建築家の方がおっしゃっていた言葉を思い出しました。
    「図面に一本の線を入れるだけでその空間構成は全く変わる。」
    これは発想の転換という意味も含まれると思いますが、
    一本の線が要を捉える事ができるかどうか?という点では
    共通しているのだと感じています。
    点を結ぶジョイントとしての線、俳句の場合でも当てはまるかと思いました。

    もうすぐ目利き百貨店ですね!山中さんのお店も半端から垣間みるプロセスの結果として
    「買い手がどんな発見をするか?」と問われている気がして楽しみにしています。

    コメント by Tomoko ARai(PUNTO_GRAFICA) — 9月 2, 2010 @ 11:27 am

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